長島昭久のリアリズム
集団的自衛権について考える(その五・補論)

 本コラムでの「集団的自衛権について考える」シリーズは前回で完結のはずでした。

 しかし、世間ではいよいよ議論が盛り上がり、いくつか補足的に取り上げなければならない重要問題がにわかに浮上して来ましたので、補論として取り上げたいと思います。

 その第一は、砂川事件最高裁判決をめぐる与党内の論争です。発端は、安倍総理の肝いりで自民党内に立ち上げられた安全保障法制整備推進本部の顧問を務める高村正彦副総裁の「最高裁の砂川判決が集団的自衛権の限定的行使容認の根拠となり得る」という趣旨の発言です。これに対し、公明党の山口那津男代表が「集団的自衛権も視野に入れた判決と思っていた人はいない」と噛みつきました。

 結論から言えば、いずれも不正確です。まず、昭和34年の砂川事件最高裁判決時に集団的自衛権が視野に入っていないはずがありません。判決文中にも裁判官補足意見の中にも国連憲章第51条が明記する国家固有の権利としての個別的、集団的自衛権については言及があります。ただし、この判決が集団的自衛権の行使容認の「根拠」とまで言えるかというと、それは疑問です。自衛権の中身について最高裁判決は判断を控えており、それは政治部門(内閣と国会)の裁量に委ねられたというべきです。歴代政権および内閣法制局は、その裁量の範囲内で憲法解釈を重ね、今日のような集団的自衛権は憲法9条の許容する「必要最小限度の自衛権行使の範囲を超える」との見解が確定したのです。

 私は、本コラムで縷々述べてきたように、この政府解釈といえども、最高裁の砂川判決に判示されているように「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる」ことから、変更される余地は十分にあると考えています。

 結局、集団的自衛権をめぐる議論の焦点は、その行使を容認するにしても、憲法9条をはじめとする現行憲法の基本理念(平和主義、国際協調主義)に照らして、いかなる「歯止め」を掛けて行くべきか、という点に帰着すると考えます。

 慎重論の多くは、「いったん認めるとなし崩し的に拡大するのではないか」というものですが、これはもはや法律論ではなく、政治論あるいは政局論です。詰まるところ、安倍政権が信頼できないということなのでしょう。であるからこそ、新たな立法措置を通じて「歯止め」について政府を確実な民主的コントロール下に置くべきだと考えます。したがって、私は、民主党を中心とする野党4党の同志とともに、リアリズムの視点に立って「安全保障基本法案」の策定を急ぐつもりです。

(衆議院議員 長島昭久)