「スポーツカメラマンが選ぶ今年の1枚」ユースオリンピック 15歳の少女の希望と不安が交錯
現在TOKYO HEADLINE WEBで連載中の「AFLO SPORTの写真コラム【PHOTOIMPACT-プロの瞬撮-】」で毎回、個性あふれる写真を見せてくれるカメラマンたちに数多くある写真の中から、あえて「2018年の1枚」を上げてもらった。その時の状況と合わせ、カメラマンとしての矜持、そして彼らのパーソナルな部分に踏み込んで話を聞いた。第2回目は西村尚己さん。
国土交通省の官僚からプロカメラマンという異色の経歴
まず「2018年の1枚」を教えてください。
「今年、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われたユースオリンピックのライフル射撃女子 10mエアライフルの高木葵選手の写真です。まだ15歳なんです。純粋というか、15歳の少女が日本から一番遠いところに来て、団体競技ではないので一人で戦っていた。希望と不安が交錯した表情を見て“頑張っているな”と感じました。ちょうど娘とか息子の世代。最近はこの競技に関わらず、親目線みたいな感じで撮りながら涙が出てくる時もあります」
そういう感情って写真に出ます?
「どうですかね。あまり深くは考えたことはなかったですけど。そういうときこそが自分が何かを感じた瞬間だろうと思います」
西村さんは現在49歳。国土交通省の官僚からプロカメラマンに転じるという異色の経歴を持つ。
「2年半前に辞めて、こちらの会社に来ました。学生時代からスポーツの写真は撮っていて、国交省に入省してからはアマチュアカメラマンとして活動していました」
アマチュアってどんな活動を?
「アマチュアだとコンテストに出すくらいしかないので、いろいろなところに積極的に出していました。いろいろな賞もいただきました」
2年前というと?
「辞めたのは46歳の時です」
お子さんは?
「結婚しています。子供も2人います」
奥様は何と?
「反対していました。あきれています。でも10~15年くらい前からプロカメラマンになりたいということはずっと言っていたんです。“じゃあなんで役所に入ったんだ?”って言われそうですけど。やはり写真のほうが好きだということがごまかせなくなってきたんです」
大学卒業時はプロカメラマンになることは頭になかった?
「本当はなりたかったんです。でも大学では土木工学を専攻していたので、写真は趣味として続けようと思いました。」
バブルがはじけたころですね?
「自分は大学院にも2年行っていたのでバブルはすっかりはじけていましたね。もともと国土づくりやまちづくりに携わるために公務員になりたかったので、バブルはあまり気にしていなかったんですが、心の片隅に“一番やりたいのは写真”という思いはずっと持ち続けていました」
ふつふつとしたその思いが46歳になって爆発した。
「もう限界に達しました。我慢の限界というか(笑)」
奥さんだけじゃなく、同僚にも止められたのでは?
「バカじゃないかって言われました。でも応援してくれる人もたくさんいました」
昔は地味で汚い写真でもドラマや感動を感じるものがあった
そういう人生を生きてきた西村さんだからこそ撮れた写真?
「どうなんでしょう。でもいつも自分しか撮れない写真を撮りたいということを考えながらシャッターは切っています」
20~30年撮っていて、撮り方は変わってきた?
「変わってないです。変わってないゆえに苦しんでいます。今は仕事なので、売るための写真を撮らなければいけない。それと自分の撮りたい写真とはギャップがある。あと近年は速報性がとても重視されていて“必要な写真を撮ってすぐに送る”というような風潮がある。自分は徹底的に最後までシャッターチャンスを狙いたいんですが、そんなことばかりしていたら売るチャンスを失ってしまう。そういうのが今の一番の悩みかもしれないですね」
同僚のカメラマンとは世代がひとつ違う。やはり撮る写真も違ったりする?
「若い人は技術的にはみんなうまいと思います。最近、世間では鮮やかで美しい写真というか見栄えのいい写真が評価されているようにも思うんですが、自分たちの時代はフィルムも経験していますし、モノクロ写真もそうですが、もっと被写体の内側に目を向けるというか、地味で汚い写真でもドラマや感動を感じるものがあったと思うんです。自分はそういう写真を撮っていきたいと思っています。」
46歳での転職。どういう形で採用された?
「アフロスポーツとの出会いは2001年。当時、霞ヶ関の国交省で働いていましたが、昼休みに有楽町で開催中のアフロスポーツ写真展に行きました。そこで芸術的なスポーツ写真を見て、自分もアフロスポーツの一員になりたいと思いました。それから数年後、撮り溜めた写真を送りました。その時はまだ30代。連絡があって社長でカメラマンでもある青木さんに呼ばれました。面接みたいな感じでちょっと期待を持って行ったんですが、青木さんには“公務員は収入面も含めて安定しているけど、カメラマンは不安定。子供や家族がいるし、とにかくやめたほうがいい”といったことを言われました。“それを伝えるためにあなたを呼んだ”とも。でも自分は呼ばれた以上、このチャンスは逃せないと思って2~3時間くらい粘りました。青木さんにいくら説得されても食い下がっていたら“じゃあ土日とか休みの日を使ってスポーツの写真を撮ったらどうか”という提案を頂いた。もちろん公務員なので、あくまでもボランティアとして時々、スポーツイベントの取材撮影をさせてもらったわけです。それがずっと続いていたんです。青木さんはそれでいつか諦めると思っていたのかもしれないんですが、自分は諦めるどころか、どんどん気持ちが盛り上がるというか(笑)。抑えきれなくなった。紆余曲折を経て10年後に採用してもらいました」
役所だと若い頃は上司の命令に従わなければいけないし、上に行って役職などに就くと責任も伴ってそれはそれで忙しくなる。その10年は本当に大変だったのでは?
「そうですね。だから中途半端になるのはいやだった。ここの会社で断られたら諦めるつもりだった。家族もいるので、フリーというのは考えられなかった。そんな勇気もなかったし。それに青木さんは“僕があなたの立場だったらカメラマンになっている”と言うんです。そんなこと言われたら諦められないですよね(笑)。多分、青木さんも僕の気持ちを分かってくれていたので、なかなか断れなかったんだと思うんです」
青木さんは青木さんでカメラマンと経営者という2つの立場の板挟みになっていたんでしょうね。
「家族を抱えていますし」
いい写真を撮る人は山ほどいる。自分独自の視点で自分にしか撮れない写真を追求したい
これからどんな写真を撮っていきたい?
「家族に迷惑をかけながらチャンスを得た仕事なので、自分にしか撮れない写真を追求したい。いい写真を撮る人は山ほどいる。そういう人と同じものを撮っていても自分の存在価値なんてないと思うので、やはり自分独自の視点で、他の人は気づかないところに焦点を当てたような写真を1枚でもたくさん残していきたい。見た目の美しさだけではなく、いかに人間の内面を撮れるかということを追求していきたいと思っています」
撮影するスポーツのジャンルにはこだわりはない?
「ジャンルに関わらず、とにかく一生懸命で輝いている選手に魅力を感じます。有名なトップアスリートに限らず、普段、あまりスポットライトを浴びない選手にも焦点を当てていくカメラマンになりたいですね」
昔は雑誌がたくさんあって、さまざまな形で写真を見る機会はたくさんあった。どんどん紙媒体が衰退して、そういう雑誌が大きく減った。最近はウェブ媒体が多く出てきているが、紙で見るのとではやはり違う?
「違いますね。特にスマホで見る人が多いと思うんですが、あんな小さいので見てもなかなか写真の良さは伝わらないんじゃないかと思います」
新聞社のカメラマンは自分の写真がどこに載るか分かっている。アフロの場合はどこに載るかは分からない場合が多いと思う。そういうときのカメラマンの心持ちはどういうもの?
「仕事である以上売るための写真は、きっちりまず押さえようと思っています。7~8割はそれを押さえて、残りの2~3割は自分の好きな写真を撮るというのが理想でしょうか」
会社が欲しがるものではなく、自分の好きなほうの写真が売れるとやはり気分があがるのでは?
「それはたまにありますね。自分がいいなと思っていた写真が使われたりすると、自分は間違っていなかったんだなと安心はします」
人間、40歳くらいになるとだいたい人生を決めてしまう人が多いと思う。そんななかで西村さんは夢を追って、人生をがらりと変えた。世の中の夢を捨てきれない人にアドバイスはある? むしろあまり勧めない?
「そういう人は好きですよね。頑張る人というか。自分が成功していれば何か言えるんでしょうけど、まだ第一歩を踏み出しただけなので。でも今言えるのは、人それぞれ価値観や環境も違うので一概には言えない。諦めるのもひとつの勇気だし、踏み出すのも勇気ということ。そう考えると正解は分からない。家族のことを思えば、自分の夢を諦めてそのまま一生懸命働くというのはそれはそれで立派だと思いますし」
一歩踏み出して間違ってはいなかった?
「やってみないと分からないこともあります。失敗したとしても、死ぬときに後悔はしたくないなという思いはありました。自分は今までそれなりに勉強して大学に行って、日本で一番安定している役所というところに入った。自分の足で歩いている感じがあまりしなかったんです。肉体的にも精神的にも厳しい仕事ではありましたが、巨大な組織の中で自分がいなくても物事は進むし、真面目に仕事をすれば生活も保障されるというところにいた。この年になって自分で一歩一歩歩いていかないと前に進んでいかない環境になったんですが、充実した密度の濃い人生こそが幸せなんじゃないかと思うようになりました。笑顔でいることだけが幸せなのではなくて、歯を食いしばりながら一生懸命自分の足で歩く。その結果がどうであれ、そのプロセスが大事なんじゃないかと思います。それを信じて、日々写真を撮っていきたいと思っています」
(本紙・本吉英人)
1969年、兵庫県生まれ。大阪大学大学院工学研究科修了。
人間味あふれるアスリートの姿に魅せられ、学生時代にスポーツ写真の世界と出会う。
大学卒業後は、国土交通省に勤務しながらアマチュアカメラマンとして活動するも、どうしてもプロの世界で挑戦したいという想いが募り、2016年にアフロスポーツに転職。
現在は国内外のスポーツを精力的に撮影し、人間の情熱や鼓動、匂いなど五感で感じとれる作品づくりに励む。
2007年 APAアワード写真作品部門 奨励賞
2013年、2015年 写真新世紀 佳作 ほか
1997年、現代表フォトグラファーである青木紘二のもと「クリエイティブなフォトグラファーチーム」をコンセプトに結成。1998年長野オリンピックでは大会組織委員会のオフィシャルフォトチーム、以降もJOC公式記録の撮影を担当。 各ジャンルに特化した個性的なスポーツフォトグラファーが在籍し、国内外、数々の競技を撮影。放送局や出版社・WEBなど多くの報道媒体にクオリティの高い写真を提供し、スポーツ報道、写真文化の発展に貢献している。 ■アフロスポーツHP https://sport.aflo.com https://www.aflo.com ■Facebook https://www.facebook.com/aflosport ■Instagram https://www.instagram.com/aflosport ■Twitter https://twitter.com/aflosport