【徳井健太の菩薩目線】第24回 優しさにまで“分かりやすさ”が求められる時代
“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第24回目は、優しさを受ける側の“優しさリテラシー”の低さについて、独自の梵鐘を鳴らす――。
優しさにまで“分かりやすさ”が求められる時代
「能ある鷹は爪を隠す、やってます!」と書いてある
メッセージTを着るしかない
この前、山手線の満員電車に乗っていると、若い成人男性が、目の前に立っていた高齢者に席を譲ったんだ。その行為自体は、とても素晴らしいことだろう。ただ、俺は釈然としなかった。その光景を見た、同じ車両の乗客が、「あの子、なんて素敵な若者なんだろう。ぽわ~ん」みたいな雰囲気に包まれていたんだ。あたかも、己の日々の傷を癒すように、「ごちそうさま」と言わんばかりに、その若者を見ていた。
彼が善い行いをしたことは間違いない。だからと言って、過剰にほだされ過ぎなんじゃないのか、と。まさに、“ヤンキーが優しいことをすると過剰なほどプラスに映る”シチュエーションと一緒だと思った。優しさに対する免疫力やリテラシーが、あまりにも低下しているのではないかって怖くなったよね。
どこかで優しい行いをしている人はたくさんいるわけであって、目立たなくても配慮や優しさを心がけている人は、いたるところにいる。例えば、席を譲らないにしても、リュックサックを前に抱えて吊革を握っている人だって、ちゃんと配慮の姿勢がある。「満員電車の中で、少しでも快適に」という意味では、席を譲ることも、バッグを前に抱えることもイコールだろう。ところが、席を譲ることは、より立派な行為に見えるらしい。
“分かりやすい”優しさや配慮にだけ、過剰に感応してしまう人が多いのは、どうなんだろうね? いよいよ、優しさにまで“分かりやすさ”が求められるような時代になっているのかと思うと、吐き気をもよおす。感情ってのは、斟酌なんて言葉があるように、気持ちを汲んだり、考えたりするもんだ。「山手線の満員電車の中で、若者がお年寄りに席を譲る行為に乗客全員がほだされる」。文字に書き起こしてみると、これほど安っぽい光景もない。
分かりやすい優しさでしか感じないカラダになっているのだとしたら、こんなに簡単なことはない。優しさリテラシーの低い奴に近づいて、優しい演技をかませば、いっちょ上がりってことだよ。善い行いってのは、あくまで善い行いであって、それ以上でも以下でもない。そもそも善い行いってのは、特別なことではなくて、本来は誰もがするべき当たり前のことなんだから。