徳井健太の菩薩目線 第82回 サドルを盗むなら、犯行後、一輪のバラを挿してくれたらなんて思う
コロナ一色だった今年。その師走に、こんな話なんてしたくはないのだけれど、ものは考えようだ。
家の駐輪場に向かうと、サドルのない自転車が2台、目に飛び込んできた。 「あ~盗まれた」。若かりし日の俺なら、すぐさま誰かのサドルを奪い、補填していたに違いない。でも、俺も40歳。少し間をおいて考えてみた。
もしかしたら俺のサドルを奪ったA氏は、自身の自転車のサドルを盗まれたがゆえに、犯行に及んだのかもしれない。盗まれたから盗み返す。復讐。その俺が再び誰かのサドルを奪おうものなら、負の連鎖は終わらない。サドルが流転するかぎり、復讐も流転する。
俺はサドルを買うことにした。ECサイトで購入したので、到着するまでの間は立ちこぎで移動してみた。数日後、過剰包装で届いたサドルを見ると、頭の部分しかない。座位のクッション部分のみで、棒が見当たらない。――別売りだった。それなりに生きてきて、日常の生活用品に関しては、いまさら驚くことなんてないと思っていたけど、サドルと棒(シートポスト)は別。毎日が発見だ。
改めて、棒だけを注文する。また、立ちこぎをする。ピンポーン。棒が届いた。意気揚々と駐輪場に向かうと、俺のサドルが戻ってきていた。鎮座ましますと言わんばかりに、当たり前のようにささっているサドルに、心底、「ふざけんな」と思った。でも、視線をとなりに移すと、もう1台はサドルがないままだった。
俺は購入した意味合いを付けたかったのか、自分の行為に落とし前を付けたかったのか……戻ってきた古いサドルを、隣のうつろな自転車に装着し、新しく購入したピカピカのサドルを自分の自転車に差し込んだ。と、同時にわきあがる感覚。なんだろう、この良いことをした充実感。復讐の連鎖を、俺は止めたような気がした。
なぜ、サドルは返ってきたのだろう。もしかしたら、A氏のサドルも返ってきたのかもしれない。サドルなんて心臓と一緒で一つあれば十分だ。A氏の自転車のカゴに、ある日、なくなったはずのサドルが返ってきていたとしたら、余分になったサドルを、犯行現場である俺の自転車に戻したっておかしくない。
そうじゃなかったとしても、俺が購入したサドルが、結果的にとなりの自転車の所有者の小さな驚きになっていることは間違いない。復讐の連鎖は、ほんのちょっと色を加えるだけで、好意の連鎖に変わるんだなと思った。病気の子どもなんて、はじめからいなかったんだ。的な。
それにしてもつくづく思う。なぜ人はサドルをパクるんだろうって。ビニール傘なら理解できる。でも、サドルを盗んで、何になる。いやがらせか、いやがらせなのか。いや、もしかしたらさきほど推測したように、サドルを奪われた人がサドルを盗んでいるだけ。だとしたら、その虚無行為が延々と続いているだけなのかもしれない。いつか、誰もが、サドルを盗まれる運命にあるのかもしれない。いやがらせも、結局は負の連鎖でしかないわけだからさ。
そう考えると、ビニール傘の強奪って不思議な行為だ。純粋な悪意、いやがらせとは違う。告白がうまくいかなかった、ギャンブルに負けた、イライラした人間がビニール傘をパクって、心をあさましく満たそうとすることはない。でも、サドルならありえる。ビニール傘にはなくて、サドルにはあるもの――。なんだろう。
サドルが盗まれたとして、せめてそこに一輪のバラの花を挿しておいてくれたらなんて思う。もう、自分でも、何を、言い出しているのか、ワカラナイ。バラの花を挿していたとしても、いやがらせには違いない。ただ、一輪のバラを購入する費用がかかっただろうし、花屋に足を運んだ労力もあっただろう。同じ嫌がらせでも、愛のあるいやがらせなら、まだ許せると思う。そんなバンクシー崩れみたいないやがらせ、やっぱり嫌だ。許せない。
サドルを盗むなんて、何のひねりもないことなんだよ。だから、もしこれから盗む人がいるなら、もうひとひねり考えて盗んでほしい。サドルを盗むことに、大義名分を持ち出してほしい。サドルを盗むなんて、究極の想像力の欠落。でも、サドルを盗まれたからと言って、在りし日の写真を貼って「盗難に遭いました。拡散希望」なんてSNSで公開する人もいない。無理やり考えれば考えるほど、サドルって、何なんだろうね。
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