改めて皇位継承問題を考える(その三)【長島昭久のリアリズム】

 

 前回までに、我が国古来2000年にわたる皇位継承の歴史的大原則である血統原理に基づく「男系継承」の尊さと、それを貫徹するために幾度もの危機を乗り越える過程で編み出された「直系を補う傍系継承」という知恵について述べさせていただきました。その上で、今日直面する皇位継承の危機を克服するために、約600年遡り「伏見宮」系のご子孫を皇室にお迎えすることを提唱させていただきました。

 ただし、GHQ指令に基づくものとはいえ70年以上も前に皇籍離脱した方々のご子孫を、いきなり皇室に迎えるとなると様々な議論が出てくることでしょう。そこで、成人された方々をいきなり皇籍復帰させるのではなく、例えば、旧宮家に連なる十歳前後の男児の方を現皇室に養子としてお迎えし、その宮家を継承していただくということも考えられるのではないでしょうか。幸い、伏見宮系の旧宮家には、五歳とか七歳とかのお子さんも複数いらっしゃいます。こういう方たちに皇室に入っていただいて、帝王学を学んでいただければ、将来、立派な皇位継承資格者になられると考えます。

 そもそも宮家や親王家というのは、「皇統の藩屏」といって男系男子の血筋を保存する〝フェールセーフ〟の仕組みです。もし天皇にお子様が生まれなかった場合、男系皇統を守るために直系に代わって「傍系」が皇位を継承する。こうして万世一系を貫いてきたのが日本の歴史なのです。

 歴史を紐解けば、「傍系継承」で男系継承を維持した先例が少なくとも10例あります。最初が第22代清寧天皇から6親等を隔て祖父の兄の孫である顕宗天皇への継承です。2例目が、有名な第25代武烈天皇から継体天皇への継承です。当時の大連(最高実力者)大伴金村の叡慮によって、武烈天皇から見て10親等を隔てた高祖父の弟の玄孫たる男大迹王(おおどのみこ)を越前に尋ね求めて継体天皇として即位せしめたのです。最近では、第118代後桃園天皇から光格天皇への継承が、7親等を隔てた傍系継承となります。

 今日、この「傍系」の役割を復活させるためには、皇室典範の改正をしなければなりません。一つは、典範第九条です。同条が禁ずる「皇族の養子」を条件付きで緩和する必要があります。ところで、明治の典範制定時、その中心的役割を担った井上毅は、皇族内の養子は「皇統の紊乱につながる」と考え、これを禁じました(旧典範第四十二条)。しかし、宮家間の養子を禁ずることによって、近代以降、男系男子を当主とする宮家が次々に廃絶に追い込まれてしまいました。紊乱を防ごうとするあまり、皇統の先細りを招いてしまったのでは、それこそ本末転倒です。

 もう一つは、典範十五条の改正です。旧宮家といっても、その子孫の方々には皇籍に復帰するのではなく、新たに取得していただかなければなりません。つまり皇籍を取得する「特例」を設ける必要があります。(つづく)(衆議院議員 長島昭久)

【長島昭久プロフィール】
自由民主党 衆議院議員6期・東京18区(武蔵野市・府中市・小金井市)。
1962年生まれ。慶應義塾大学で修士号(憲法学)、米ジョンズ・ホプキンス大学SAISで修士号(国際関係論)取得。2003年に衆院選初当選。これまで防衛大臣政務官、総理大臣補佐官、防衛副大臣を歴任。2019年6月に自由民主党に入党。
日本スポーツ協会理事、日本スケート連盟会長。