「過去や未来の話をしても現在からは誰も逃げられない」 豊田利晃&窪塚洋介が『全員切腹』で問いかける、生き方の美学〈後編〉
豊田「怒りは想像力の源ではあるけれど、それが歓喜、悦びに繋がればいい」
窪塚さんも、よく“ピンチはチャンス”と仰っていますね。
窪塚「はい。豊田さんはそれを体現されていると思います」
豊田「ははは。いや、それはあなたですよ」
窪塚「うん、俺も体現してきたと思うけど。本当にそのレンジが広ければ広いほど、単純に喜びがデカいし、感じる幸せもデカい。あとは、失敗したときのほうが自分が成長したなって思う。それは例えばレゲエのライブのとき“全然ダメだったわ”っていうステージがあったから、頑張ってもっとこうしよう、ああしようと努力するようになって変わるとか。結局、成功体験より失敗や逆境のほうが自分を成長させてくれる。それはある意味で、成長のインビテーションが届いているようなものだって思えれば、どんな状況になっても、それがたとえコロナでも、もしかしたら戦争であっても、もっと別の不幸なことであっても、乗り越えていけるんじゃないかなあ、と思うんです。その気持ちひとつあれば」
豊田「身体の器官もそう。異物が入ると免疫ができるというのが、人間として自然なことで、みんなそうだと思うんですけどね。自分はもう、抗体だらけだもん(笑)」
窪塚「うん。免疫力、半端ないですから」
狼蘇山(おおかみよみがえりやま)を舞台とする3部作の1本目『狼煙が呼ぶ』(2019年)は前述の拳銃不法所持容疑に端を発し、豊田監督が“不条理な法が支配する現実に映画で回答する”と奮起されて製作されたものです。その後、オリンピックの開幕日に公開すると宣言した『破壊の日』(2020年)、そして今年の『全員切腹』と、監督の個人的な“怒り”だったものが、どんどん社会性を帯びていっているように見受けられます。
豊田「原始の時代から人は怒っていて、ものづくりは全てそういうところが原動力になっているんじゃないかな。で、たまたまそれが社会性とぶつかっているだけの話です。僕は、そのような作り方を変えていないから。だって、それくらい込み上げるものがないと、(映画作りは)1年くらいの長いスパンで物語とともに過ごしていくので、自分のなかに覚悟がないと、疲れます(笑)。飽きちゃうし」
窪塚「うんうん」
怒りそのものは常に根底にあったとして、それを表現する方法がよりストレートになった?
豊田「大きな会社に縛られずに製作しているから、より自由に、パーソナルにできるというのはありますね。公開規模もそうで、ユーロスペース(をはじめとする、ミニシアター)でかかるのであれば、この時代に敏感な人たちが来てくれるだろうから、“全ての人に分かってもらえる大衆的なもの”にまで梯子を下ろす必要はない。こういう映画でしかできない自分の表現もあると思うし、出演する役者にとってもそうだろうと思います。そして、それらが時代と合っていることによって成立する。コロナがなかったら、周りが乗ってくれないというか、“豊田、いい加減にしてくれ!”と言われて終わりになってしまう」
窪塚「うん。それは今日の舞台挨拶で隊長が仰っていたけど、この時代に何か(問題が)起これば起こるほど、監督が映画を撮る“大義”とは言わないまでも、創作意欲が湧いてくるんだろうな、って。本当にそう思います。俺も同じように今まで豊田さんの“怒り”やメッセージを作品のなかで表現してきたけど、ともするとそれを眠らせてしまったりとか、気づかないフリで過ごそうとしていたりするときに、“ちょっと待って。もう一回考えてみよう。俺はこう思っているんだけど、これ言ってくれない?”って、自分の気持ちを再確認させられたり。見て見ぬフリをしようとしていたところに、喉元に鋒(きっさき)を突きつけられているような思いになることは多々あって。で、それをまた俺は表現っていう、役者としてのエネルギーに変えて、芝居させてもらってるんで。(監督と自分は)どういう関係性なんですか?と聞かれたら、自分が伝えたいメッセージを伝えさせてくれる“同志”だとも思っているし、それを思い出させてくれる“導師”っていう、ダブルミーニングで感じています」
豊田「導師と書いて“グル”ですね。恐縮です。映画作りにおいて、監督の立場って、それが仕事だから。どの映画もそうだと思うけど、同じ方角を見て歩いていくっていう。内容が極端になることで、(目指す)矢印が深くなっていくような。そうやって作っていくなかで、僕にとって怒りは想像力の源ではあるけれど、それが歓喜、悦びにつながればいいと思っているんです」