長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その六)

 国会では、いよいよ戦後最大の安保法制改革をめぐる議論が始まりました。私も45名の与野党議員で構成される安全保障法制特別委員会の委員としてこの歴史的な議論に参画することとなりましたが、本コラムで前回までに辿って来た我が国の対外政策に関する近現代史の出来事を思い起こしながら、真剣勝負の審議に臨んでいます。

 さて、前回予告したように、今回から3回にわたって「靖国問題」について論じてみたいと思います。靖国神社の起源は、幕末の動乱で命を落とした勤王志士たち、とくに安政の大獄以来の徳川幕府による弾圧に斃れた同志たちの霊を鎮めるために行われた1862年の京都霊山における招魂祭にまで遡ります。そして、幕府権力への抵抗のシンボルとなっていた神道様式で追悼儀式を行うことで討幕への誓いを新たにしたとされます。(三土修平『靖国問題の原点』日本評論社、2005年)この招魂祭が、明治維新の後「招魂社」という神社となり、維新政府の手で明治12年6月に別格官幣社という社格を付与され「靖国神社」と改称されたのです。

 その後「昭和戦争」(満州事変、日中戦争、大東亜戦争/太平洋戦争の総称)を経て、今日では約260万余柱の英霊が祀られていますが、ここで大事なことは、靖国神社の本来の性格が「招魂」にあるという点です。心ならずも戦場に送られ尊い命を落とした兵士の魂が再び集まる場なのです。したがって、戦場に臨む兵士たちは、決死の覚悟を決め「靖国で会おう」と言って散って逝かれたのです。ですから、基本的に軍人といえども兵士を戦場へ送った将官クラスの人々は、どんなに武勲を挙げても、戦場ではなく「畳の上で死んだ者」として扱われ、靖国には祀られていません。それは、東郷平八郎元帥(日露戦争時の連合艦隊司令長官)であれ阿南惟幾将軍(終戦時の陸相)であれ同じです。

 しかし、戦後のある時期に、この靖国神社には、戦場に送られた人々ではなく、兵士を戦場へ送った戦争指導者たちが祀られてしまったのです。これが、極東軍事裁判(東京裁判)で判決を受け死刑執行された「A級戦犯」であり、「昭和殉難者」と呼ばれる人々なのです。この中には、軍人のみならず、本来靖国神社とは無関係であるはずの文民の廣田弘毅元首相・外相や平沼騏一郎元首相、松岡洋右元外相らまでもが含まれていました。1978年10月の出来事です。これは、東京裁判の不当性を訴える当時の靖国神社宮司松平永房氏の強引な合祀決断によるものでした。それは秘密裏に行われましたが、翌年の4月に新聞紙上でスクープされ、国民のみならず全世界が知るところとなったのです。(つづく)(衆議院議員 長島昭久)