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長島昭久のリアリズム | TOKYO HEADLINE - Part 6
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長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(番外編)

2014.11.24 Vol.631

 総選挙の最大の争点は、アベノミクスの是非だといわれていますが、本コラムでは、番外編として、第二次安倍政権の約2年における外交・安全保障政策について徹底検証を試みたいと思います。

「積極的平和主義」を標榜する安倍首相は、自らの外交をしばしば「地球儀を俯瞰する外交」という言葉で表しています。その言葉通り、就任以来2年間で世界50カ国を歴訪、のべ150回を超す首脳会談を行い、まさに精力的な首脳外交を展開してきました。その眼目は“台頭する中国といかに向き合うか?”にあったことは言うまでもありません。

 そのために、中国を取り囲むようにして、日本を中心に北から時計回りに露、米、豪、印といった国々との連携を最重視しました。私は、この四角形を「戦略的ダイヤモンド」と呼びました。もはや準同盟ともいうべき豪州や、対中警戒感を隠さない親日家モディ首相率いるインドとの連携強化に加え、ロシアのプーチン大統領と7回もの首脳会談を重ねてきたのもそのためです。ウクライナ問題をめぐり欧米との溝を深めるロシアですが、中国の影響力拡大が著しい極東における日ロ、日米の利害は完全に一致しています。対ロ外交で独自路線を貫く安倍首相には、エドワード・ルトワックやジョン・ハムレら米国の著名な戦略家も支持を表明しています。

 それでも、全てが上手くいっているわけではありません。しかも、この解散総選挙によって、これまで積み上げてきた外交戦略に致命的な空白が生じてしまうことを厳しく指摘しなければなりません。まず、北朝鮮による拉致問題。家族会の皆さんはじめ多くの国民が期待していた日朝交渉の成果はゼロ。どころか、我が国最大の交渉カードだった朝鮮総連本部ビルも手放してしまいました。また、我が国の安全保障の要である米国との防衛協力のための指針(ガイドライン)改定作業も総選挙によって来春まで先送りとなる情勢です。さらに、中国との関係は複雑です。世界が注目した北京APECの場で安倍首相は「前提条件なし」との前言を翻し、日中首脳会談の条件整備として玉虫色の4項目合意文書を交わしました。早期解散を意識した行動と推察されますが、「日本側からの要請に基づき会談に応じた」「初めて尖閣諸島をめぐる日中間の見解の相違を文書化した」などという中国側の宣伝を許してしまいました。

 いずれにせよ、総選挙を行う以上、経済や景気をめぐる論争に加え、外交や安全保障の政策論議も堂々と行って参ります。

(前衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その三)

2014.10.12 Vol.628

 前回は、世界史の中でも地政学的に見て日本が稀有の存在であること、そして、その日本が強大な隣国である大陸中国とは「和して同ぜず」を1500年貫いて、独立と対等の地位を堅持してきたことを明らかにしました。しかし、近代日本は古来の基本的な地政戦略を逸脱し、結果、歴史的大敗北を喫してしまいました。

 その失敗の本質は、「大陸不関与」戦略の放棄にあります。それでも、明治の元勲が指導した初期の時代に戦った日清、日露の両戦役は、文字通り「自存自衛」のための已むにやまれぬものといえ、戦争遂行にあたっても国際法を徹底的に遵守するなど近代国家の矜持を示していました。松本健一『日本の失敗』は、昭和の戦争と明治の戦争との決定的な違いを、それぞれの「開戦の詔勅」を紐解いて浮き彫りにしています。明治天皇が渙発された日清、日露の開戦の詔勅には、「国際法」や「国際条規」という文言が明記されていました(ちなみに、大東亜戦争の開戦の詔勅には、「国際法」という文言も観点も見当たりません)。また、日清、日露の戦間期に勃発した北清事変(1900年)に出兵した日本軍の統率、規律、品格に世界の列強が驚嘆したのは、つとに有名です。

 しかし、往々にして絶頂は転落の始まりとなることを古今の歴史は示しています。日清戦争後、独仏露による露骨な三国干渉を挙国一致の臥薪嘗胆で乗り越え、日露戦争でも10万人を超える犠牲を出しながら辛勝を掴んだあたりから、朝野を挙げて驕り高ぶり、成金がはびこり、人心は頽廃して行った・・・。明治、大正、昭和の激動を外交官・政治家として駆け抜けた重光葵は、著書『昭和の動乱』の中でそう記しています。また、朝河貫一イェール大学教授は、日露戦争のただ中に在って全米を講演し、ロシアに挑む日本の戦いがあくまでも中国の領土保全・機会均等を目的にした国際正義の戦争であることを説き、セオドア・ルーズヴェルト米大統領をはじめとする欧米の対日支援を獲得することに成功します。しかし、その朝河は、日露戦争からわずか4年で痛烈な日本批判の書『日本の禍機』を上梓します。国際正義を掲げてロシアを破った日本が、その後、中国東北部の占領地に居座り、ロシアに代わって中国を圧迫し続けているのは何事かと。朝河には日本が亡国への重大な一歩を踏み出そうとしているように映り、深刻なる焦燥感に駆られ、祖国日本に対する諫言の筆を執ったのです。

 実際、近代日本は、国際連盟の常任理事国入り(1920年)を果たし得意の絶頂に上りつめた瞬間から坂道を転がり落ちて行きました。

(衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム
国家と安全保障を考える(その二)

2014.09.15 Vol.626

 前回は、日本の地政学的位置づけについて基本的な認識を述べた上で、他の島国と比較しつつ、日本が世界史の中でも稀有な存在であることを明らかにしました。国際政治学の泰斗である高坂正堯は、このような日本の特性に注目し、日本を「東洋の離れ座敷」とか、西洋文明をいち早く受容したアジアの国という意味で、極東ならぬ「極西」と呼びました。また、『文明の衝突』を著したサミュエル・ハンティントンは、日本を世界8大文明(西欧、東方正教会(16世紀ビザンチン帝国発祥)、中華、イスラム、ヒンドゥー、アフリカ、ラテン・アメリカ)の一つとして、日本一国のみで成立する独立文明と喝破したのです。

 周知のとおり、大陸中国は、古来、周辺を朝貢国として属国化させ、東アジアから中央アジアに至る広範な領域をその影響下においていました。その強大な中国とわずかな距離の海を隔てて、毅然として対峙し続けた日本外交の要諦は、聖徳太子の時代から「和して同ぜず」。協調しつつも決して同化しなかったのです。

 西の神聖ローマ帝国と並び称された東の隋帝国皇帝に対し、時の摂政聖徳太子が発した言葉「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」は、つとに有名です。まさに、日中対等を内外に闡明したのです。そして、翌年の国書にはさらに強烈な言葉が並びます。「東天皇、敬(つつし)みて、西皇帝に白(もう)す」。「天」という字は、古来中国では最上位を表す特別の語。聖徳太子は、平然と「自分の国は天皇で、貴国は(格下の)皇帝だ」と言い放ったのです。

 以降、遣唐使を廃止した菅原道真しかり、日宋貿易を促進した平清盛しかり、元寇に立ち向かった北条時宗しかり。豊臣秀吉も、徳川家康も、伊藤博文も、陸奥宗光も。例外は、朝貢を通じて日明貿易で儲けた室町幕府三代将軍の足利義満くらいで、聖徳太子以来、じつに1500年にわたって日本のすべてのリーダーが中国に対し「和して同ぜず」の堂々たる外交を貫いたのです。

 ところが、近代に入って、日本は中国大陸にのめり込んで行ってしまいました。私はこのことこそが、「失敗の本質」だと考えます。明治から大正にかけて、日清・日露の戦役に勝利し、国力を伸長させて行く途上で大陸進出を図り、これまで堅持してきた大陸不干渉政策を逸脱し、戦略的な大失策を犯してしまったのです。次回は、結果的に300万人余の同胞の命を奪い、日本列島を焦土とし、国家経済を破壊し尽くしてしまった、近代日本の戦略的な失敗の本質に迫りたいと思います。(衆議院議員 長島昭久)

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