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平成ノブシコブシ 徳井健太の菩薩目線 | TOKYO HEADLINE - Part 2
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徳井健太の菩薩目線 第105回 チョコプラから「分析しているけど徳井さんは何かしましたっけ?」と揶揄された俺からのアンサー

2021.07.30 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第105回目は、チョコプラからのつっこみについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 ラジオ番組『チョコレートプラネットの東京遊泳』で、チョコプラが俺に対して物申していた。平たく言えば、俺の分析芸に対する疑問、つっこみ、苦言――。

 まず言いたいのは、かなり突っ込んだ内容だったにもかかわらず、特にネットニュースにならなかった点だ。率直に、申し訳なさを感じている。俺のバリューが少ないからなんだろうな。女性タレントがSNSで新しいバッグを購入したことを報告するだけでネットニュースになる時代に、無風で終わってしまったことを陳謝したい。

 これで終わってしまうのも、いささか気持ち悪い。なので、彼らからの檄だと思い、俺なりに自分を考察しておきたいと思う。

 長田は、「徳井さんはいろいろ芸人さんについて指摘したり、分析していたりするけど、徳井さん自身で何かしました?って思う」的なことを皮切りに、好き勝手言ってくれた。その好き勝手具合は、まさに俺がやっていること。放言されて当然。むしろ、清々しささえあった。なるほど、そう思うよねって。

 まさにそうなんだ。俺はお笑い界で、何もやっていない人間。視聴者代表。その俺が、ああでもないこうでもない――と、なんちゃってインテリゲンチャよろしく勝手に分析し、「(何も成し遂げていない)お前が言いうんかい!」と指摘される。

 今は懐かしき『333 トリオさん』。この番組にちょいちょい登場していた俺は、現在の分析芸(あえてそう称しておく)の原型のような発言を、俺より売れている若手のジャングルポケット、パンサー、ジューシーズにしていた。そして、「吉村さんならわかるけど、徳井さんに言われたくないですよ!」なんてつっこまれていた。嗚呼、懐かしい。構造自体は、俺の分析・批評はボケみたいなもの。

 そう。俺の分析芸は、今でこそ自分が意図していない形で面白がっていただいているけど、最初は他愛もないボケのやり取りにすぎなかった。『ゴッドタン』の腐り芸人のおかげもあって、いつしかボケでおさまっていた分析が商品の分析へと転生するなんて、俺自身予想できなかった。人生は、どうなるかわからない。

 意図していなかった形で、分析芸が一人歩きをし始めたことに対して、俺自身、考えるところはある。分析だけじゃない。芸人のエピソードを好き勝手に話す俺に対して鼻をつまむ人だっているだろう。だから、いろいろ考えるところはある。

 一つだけ。俺が何か芸人エピソードを話すときは、“よいこと”しか言わないと決めている。よいことや気持ちのよいことを聞かされて嫌な思いをする人はあまりいないと思う。この世は、あまりに煩悩が多く、嫌なことがあまりに多い。俺は、40歳が迫ったとき、ふと「ほめたいと思ったときにほめよう」と決めた。俺のYouTubeチャンネル『徳井の考察』も、そんな気持ちから始まり、結果、今の芸風につながっているところがあると思う。対象となる人は照れくさいだろうけど、俺は人をほめたいだけ。俺が何もすごくないからこそ、周りにいるすごい人を伝えたくなる。

 誰からも頼まれていない、よいことを勝手に伝える。ボランティア活動のようなものだ。俺は、芸人愛を勝手に語る紙芝居のおっさん。正直なところ、長田の言葉は少し悲しかった。ただ、冗談からはじまった分析。瓢箪から駒が出たことが、どんどん転がって大きくなりすぎてしまっているところに、当初の「お前が言いうんかい!」と冷や水をぶっかけてくれたチョコプラに、お笑い的立場として感謝の気持ちもある。

 この件は、きちんと公の場で話した方が面白いんじゃないかな。「大した実績を残していない徳井が分析するのは是か非か」。チョコプラと相方・吉村を招いて、俺というお笑い裁判官をさばく弾劾裁判をやっていただきたい。興味を抱いたメディア関係者の方、ぜひマッチメイクをお願いします。

 チョコプラの二人。長田は主義主張が強く、過去にも言い争いになりかけたことがある。そして、面白ければいいというタイプの松尾は、その隣で淡々と薪をくべていく。白熱の展開になるような。

 彼らは、今まさにお笑い界、芸能界の荒波に必死に抗っている最中だと思う。でも、その航海に疲れた人、あきらめた人もたくさんいるんだよなぁ。

徳井健太の菩薩目線 第104回 オリラジ・中田敦彦から教わった YouTube チャンネルに必要な要素

2021.07.20 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第104回目は、オリエンタルラジオ・中田敦彦とのコラボについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

俺のYouTube チャンネル「徳井の考察」と、オリエンタルラジオ・中田敦彦の YouTube チャンネル「中田敦彦のトーク- NAKATA TALKS」がコラボした。いや、コラボさせていただいた。あっちゃん、ありがとう。

彼は、現在シンガポールにいる。そのためリモートという形でコラボさせてもらった。あっちゃんには聞きたいことがたくさんあったから、久しぶりに話すことができて、俺自身とても楽しかった。やっぱりどこかで、日本を離れてさびしい気持ちもあるんだろうな。最近は、はんにゃの金田や、フルポンの村上ともコラボし、なかなかレアな話もしているので、「中田敦彦のトーク- NAKATA TALKS」を視聴すると、思わぬ発見に出会えると思う。

そう――。何を隠そう俺自身が、あっちゃんとのコラボを機に、たくさんの発見を授かった雲水でもある。

まず、驚いたのがあっちゃんの“しゃべる力”だ。元々、しゃべりが達者でトーク力は抜群だった。が、さらに磨きがかかっている。なんでも、毎日オンラインサロンのメンバーと立ち話をするような感覚で、1時間ほど話しているらしい。芸人が芸人に対して1時間じゃべるよりも、芸人が非芸人、あるいは一般の人と1時間話すほうが頭を使うことだってある。考えようによっては、今のあっちゃんのしゃべる力は、芸人以上に芸人らしいプロの境地にいるのかもしれない。

ありがたいことに、あっちゃんは俺のことを褒めてくれる。「徳井の考察」のチャンネル登録者数は、ようやく2万人間近。決して褒められる数字ではないとは思うけど、それでもあっちゃんは大丈夫だという。

今でこそ人気チャンネルの古舘伊知郎さんもテリー伊藤さんも、当初はまったく跳ねなかった。そう、あっちゃんは教えてくれた。前者はプロレスラーをはじめとする偉人たちとの思い出トークを重ねることで人気を博すようになり、後者はヴィンテージカーや中古車を巡っているうちに人気に火が付いた。本人たちが意図しないところで人気になるケースもある。知らなかった。あっちゃん和尚は、何でも教えてくれる。

有名な人ですら世間の価値と合わないときもある。だから大丈夫。合いさえすればきっと徳井さんも大丈夫。やさしく語りかけてくれるあっちゃん。後輩なのに、なんて頼もしいんだろう。

その上で、次のような助言も授けてくれた。

「徳井さんに必要なものはゾーンとアーマーです」

? まったく聞き慣れない言葉。ゾーンというのは、どうやら背景だったり空間だったり、つまりは俺がいる世界観のようなもの。俺の YouTube チャンネルは、“部屋のへり”で撮影をしているわけだけど、問題外らしい。

そして、服装にも難があると苦笑する。ジャケットと白Tシャツでもいいけど、もう少し徳井さんのキャラクターが伝わるような格好にしたほうがいい、と。どうやらこの点がアーマーというやつらしい。

「YouTubeをSNS だと思われないようにしてください」。あっちゃんの金言が俺に刺さった。正直、俺の中ではYouTubeもSNSも同じ土俵にあるものだと考えていた。Twitterを見るような感覚で、YouTubeを見るんだろうって。ところが、あっちゃんは違うと否定する。どういうこと?

彼の教誨は以下のようなことに集約される。

YouTubeには YouTubeの世界がある。言うなれば、テレビを見ていると「テレビの世界だな」と思うように、 YouTubeにもそういった世界観があると。見ている側もそういった感覚で YouTubeと接しているから、 視聴者がYouTubeを見ているときは、別の世界を見ているんだという感覚にさせなければいけない――。

ユリイカ。言われてみれば、俺たち芸人の YouTube が比較的数字が伸びない理由の一つに(人気の芸人チャンネルは除く)、ゾーンへのこだわりがないことが挙げられる。吉本芸人で言えば、会社の控室なんてことは珍しくないし、俺なんかは部屋のへりという目も当てられない環境で撮影していた。

キングコングの西野は地球儀を置いている。オタキングこと岡田斗司夫さんは背景にフィギュアや本を置いている。キャラクターに合致する世界観、つまりゾーンを作り出すことが、視聴者を誘導する上で欠かせないというわけだ。

アーマーに関しても同じだ。カジサックは赤ジャージに白タオル。ジャージは岡村さんを意識したもので、白タオルは頑固さと家族を意味し、ビッグダディを意識したものだと、あっちゃんは教えてくれた。

ゾーンとアーマーを整備することで、その人だけのチャンネルの世界観が構築される。たしかに、芸人でも衣装が決まっているタイプは、明確な世界観がある。一例を挙げればオードリー春日、サンシャイン池崎、スギちゃん。彼らはゾーンとアーマーを完備することで、お笑い界をサバイブしている。

YouTubeという新大陸に足を踏み入れたものの、俺にはゾーンもアーマーもなかった。あまりに無知だった俺は、ぐうの音も出なかった。こうなると、もうあっちゃんの信者である。彼に導かれるまま、一歩を踏み出す以外に道はない。

師の教えをうけ、「徳井の考察」はリニューアルした。そこには、グリーンバッグを背景にして、作務衣姿で考察している俺がいる。ダメだったら、他の何かに変えればいい。その融通の効きやすさもYouTube ならでは――と、師曰く。

「徳井の考察」と「中田敦彦のトーク- NAKATA TALKS」のコラボ、面白い発見が転がっていると思うので、見てね。

徳井健太の菩薩目線 第103回 しょうもな!って思うことほど、バカにしてはいけないんだよね

2021.07.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第103回目は、アミューズメントカジノで遭遇した体験について、独自の梵鐘を鳴らす――。

アミューズメントカジノなる施設がある。

ブラックジャック、バカラ、ルーレット、ポーカーといったゲームを楽しむことができる――、といっても“仮想カジノ”なので、本物のお金をかけたりすることはできない。

プレイヤーは、施設内のゲームに参加するために、あらかじめ専用のチップを購入し、そのオリジナルチップを投じて楽しむ。

いうなれば、ゲームセンターにあるコインゲームと同じ。勝ったからといって、そのオリジナルチップを法定通貨に交換することはできないから、ゲームに勝っても“オリジナルチップが増えるのを自己満足として、楽しむ”だけ。まぁ、平たく言えば、酔狂の類だろう。

「料金が後払い」という点についても説明しておこう。入店して、希望のチップ枚数を選ぶ。チップが足りなくなったら、また申告し、希望のチップ枚数をもらう。費やしたチップ枚数は入場伝票に記録されるので、退店するときにまとめて清算するという具合だ。

「ゲームセンターのカジノ版だろ。所詮は子ども騙しだ」なんて思うかもしれないが、これがなかなか面白い。特に、ポーカー(テキサスホールデムポーカー)は、本場のカジノさながらの臨場感を味わえるからか、アミューズメントカジノにもかかわらず連日、多くの客でにぎわい、なかなか席が空かないほど人気を博している。

お遊びといっても、酒を飲みながら楽しむこともできるので、それなりにギャンブル感も味わえる。というわけで、最近は俺もたびたび足を運んで、疑似カジノに興じていたりするのだが、「住めば都」ではないけど「やってみるとギャンブル」を痛感する次第だ。

といっても、“ゲーム”にではなく“人”に、だ。

俺が訪れるアミューズメントカジノには、かならず長身のじいさん(以下・長じい)と、ガラの悪い兄ちゃん(以下・ガラ兄)がいる。その二人はよく顔を合わせるからだろうか、お互いをハンドルネームのような名前で呼び合っている。

俺がお酒を再注文した姿を見るや、「お、兄ちゃん、飲み放題にしたほうがいいよ」なんてアドバイスをしてくる。これがガラ兄だ。俺はチップがなくなったため、この1杯を飲んだら帰ろうと決めていた。ところが、掣肘を加えられたもんだから、帰るに帰られなくなった。大して飲みたくないのに「飲み放題」に変え、追加のチップを支払う。裏目。アミューズメントカジノとは言え、人によって裏目になる。面白い。

一方、長じいはというと、オリジナルチップの中でも最上級と思われる銀色のプレート(もはやチップですらない)を投じてバカラに参加するリッチマンだ。皆がチップを投じているなか、突然、銀のプレートが飛んでくるので、びっくりする。

回転寿司の皿みたいなもので、おそらく一番高いチップを購入すると、その銀のプレートになるんだろう。でも、コインゲームの延長線上にあるアミューズメントカジノで高いチップを買う……そんなイカれた行動ができない俺には、その銀のプレートが実際には何なのかよくわからない。とにかくすごい勢いで、プレートがバンカー、あるいはプレイヤーめがけて飛んでくる。

アミューズメントなカジノとはいえ、狂った人はいるのだ。

ただ、あくまで疑似カジノ。慣れていないスタッフがカードを見せてしまうなどの凡ミスもあるし、本場カジノのように目が「$」になっている人間はいないので、牧歌的な雰囲気につつまれている。初めて参加するカップルがいれば、皆で教えてあげるような空気感もあり、カジノに行く前のチュートリアルだと考えれば、ちょうど良い場所かもしれない。

長じいは、各ゲームを一通りプレイし、2時間ほど滞在していただろうか。

会計をするらしく、たまたま近くにいた俺は、銀のプレートの謎が解けるかもしれないと思い、彼の会計を注視していた。

「お会計は7万円です」

聞こえてきた声に、愕然とした。長じいは酒も飲んでいない。チップだけで……7万円……!? 銀のプレートがいくらなのかわからないけど、ここはアミューズメントカジノだぜ。うそだろ。7万円も使うような場所なのか――。

月に1~2回ほどしか行かない俺が、ほぼ必ず遭遇する長じい。ということは、この人は二日に1回くらいは来ているのかもしれない。毎回平均して7万円くらい使っているのだとしたら、長じいは一体月にいくら落としているんだろうか。まさにギャンブル。こんな酔狂な金持ちが、いるところには、いる。

もしかしたらカジノが大好きで、世界中のカジノで金を吸い上げ、ときには溶かしてきた猛者なのかもしれない。喜び勇んでカジノに行きたい。だけど、コロナ禍で渡航ができない。だから、その欲をアミューズメントカジノへ全振りしているのだろうか。あれこれ想像するけど、疑似カジノに7万円も突っ込める狂人がいることに、俺は戦慄し畏怖の念を抱いた。

あの銀のプレートは、アミューズメントカジノでは魔法のチップかもしれない。でも、一歩外に出ればテレホンカードよりも価値のないプレートだ。

たしかにその通りなんだ。だけど、長じいにとっては、きっと価値のあるプレートなんだろうと考えると、人の欲、趣味嗜好というのは、簡単に考えちゃいけない。しょうもなって思うことほど、バカにしてはいけないんだなって。

どんなにゴミのように無価値なものに見えても、当の本人にとってはかけがえのないものがある。しょうもなって思ってしまうことが、もっとも価値を狭めてしまう言動だと、アミューズメントカジノから教えてもらった気がした。

 

※【徳井健太の菩薩目線】は毎月10・20・30日更新です。

徳井健太の菩薩目線第101回 クレームと異議の違いって何だ? そして、世の中には「先生」が多すぎる

2021.06.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第102回目は、クレームと異議の差異について、独自の梵鐘を鳴らす――。

どこからがクレームになるんだろう。

例えば、飲食店で注文した料理が運ばれてこない場合。「出てくるのが遅い」と鼻息荒く呼び止めるのは、クレーム、あるいは難癖の類だと思う。

反面、自分より後に入店した人が、自分と同じ料理を注文し、先に料理が運ばれた場合、「先に頼んでいたんですけど、おかしくないですか?」とお店に伝えるのはクレームではなく、異議申し立ての範疇だろう。

こういったことを普段からみんなが言えるようになれば、クレームか否かの判断も付きやすくなるだろうし、仮にクレームに遭遇しても対処しやすくなる気がする。だけど、どういうわけか異議申し立てすら口にしないで、我慢してしまう人が多いように感じる。みんな、いろいろと自粛しすぎやしないかなんて思う。

異議は、文句とは違うはずだ。そういった意見を伝えることは、とても大切なことだと個人的には思っている。人によっては、この言動すらも“マウントを取っている”ように映るんだろう。でも、明らかにクレームと違う、「私はこう思っているんですけど」がマウントに見えるのだとしたら、あまりに息苦しいし、視界が不良すぎる。

そもそも、どれだけの人がクレームの線引き、基準を持っているんだろう。先の飲食店のように、自分の中で、「こっから先はクレーム」「ここまでは異議申し立て」の基準があったほうが、物事に対する意見がしやすくなると思う。自分の中に尺度がないと、なんでも遠慮しがちになるし、あるいはクレームっぽい考え方に寄ってしまいそうだ。

あくまで私見だけど、とりわけ肩書きがある人や先生と呼ばれている人に対して、萎縮、自粛してしまう人が多いように思う。医者なんて、その典型だ。疑問に思ったことは、相手は医学のプロなんだからどんどん聞けばいい。だけど、「こうですから」と言われると、「……そうなんですね」なんて具合に、おとなしくなってしまう人が少なくない。何も言い返しちゃいけないみたいな雰囲気があるから、セカンドオピニオンが生まれたんじゃないのかなんて邪推したくなる。

かくいう俺も、医者は苦手だ。

子どもの頃に受診した際 、「多分風邪だと思うんです」と断りを入れた子どもの俺に対し、医者は「風邪かどうかを決めるのは俺だから」と一喝した。以後、医者は苦手だ。

子ども心に、「立てついてはいけないんだな」と考えるようになった。でも、医者を目指す同級生がいて、「こんな奴が医者になるのか」と思ったら、なんだかどうでもよくなってきた。今でも苦手だが、崇める気持ちは特にない。

勉強することは、とても素晴らしいし尊いことだ。勉強しなかった自分が口にするのは恐縮ではあるが、恵まれた環境さえあれば勉強は誰にだってできる。つまり、誰だって医者になれる可能性がある。勉強をたくさんした人だけど、神様なわけがない。

なぜ、日本はこんなにも“先生”という敬称を付ける仕事が多いんだろうか。学校の先生は、まぁ先生だから仕方がないとして、医者、弁護士、作家、税理士……設定上“エライ”だろう人に対して、どういうわけか先生と呼ぶ。

政治家も先生……か。何やってるかわからない人がどうして先生なんだ? そういえば、競馬評論家の井崎脩五郎さんは何で先生なんだろう。競馬に詳しい人が、なぜ先生呼ばわりされているのか……ギャンブルが好きな俺も、実は先生なのかもしれない。

「お前と一緒にするな。あの人はすごい人なんだ」なんてクレームなのかクレームじゃないのかわからないけど、そんな意見を持つ人もいると思う。そういう意見、ウェルカムだ。思っていることは、なるべく口にした方がいい。

あくまで俺の考えだけど、すごい人がどうして「先生」に昇華されるのかわからない。すごい人は、すごい人でいいじゃないか。わざわざ先生と呼称を上書きする必要なんてあるんだろうか。先生に上書きされたことで、何も言えなくなる人だっているだろうに。

言いたいことも言えないこんな世の中になったのはポイズンなんかではなくて、先生が増えすぎたからなんじゃないの? なんて思う。 

神様みたいな人には、何も言えないかもしれない。でも、世の中にそんな人はほとんどいない。ほとんどが先生ばかり。医師会のトップも、宣言下で会食をしていたじゃない。 

だから、気になることはどんどん口にした方がいい。できれば、クレームか否かのマイルールを順守しながらだと、快適だと思う。口をつぐんでしまうような神様なんて、そうそういないんだから。

 

徳井健太の菩薩目線第101回 使い込むべきか、丁重に扱うべきか。モノを大事にしている人はどっちだ?

2021.06.20 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第101回目は、モノを大事にするとは何なのかについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

使い込むべきか、丁重に扱うべきか。本当にモノを大事にしている人は、どちらなんだろう? 先日、そんなことを考えてしまう話に遭遇した。

主人公は、とある田舎で暮らしているお姉さん。以下の話は、その妹さんが教えてくれた顛末だ。

結婚10周年かつ誕生日ということで、お姉さんは旦那さんからプレゼントとして有名ブランドの高級バッグをいただいたという。大そう喜んだお姉さんは、その高価なバッグを家に飾っているそうだ。

飾っている……?

疑問に感じた妹さんは、思わず「使わないの?」と色をなして姉に詰め寄ったらしい。「せっかくアニバーサリーなプレゼントをしてくれたんだから、使ったほうが旦那さんだって喜ぶじゃん」と。

ここで皆さんに聞きたい。この場合、どちらのほうがバッグを大切にしているんだろう?

お姉さんからすれば、高価かつ大切なものだからこそ、ずっとそのままの姿であってほしい。飾ってあるバッグを見るたびに、心が満たされるような気持ちになるからだ。一方、妹さんとしては、旦那さんの心情もくみ取り、自分がプレゼントされたものが役割を得ず、ただただ鑑賞物になっているのは悲しい。だから、積極的に使うべきだ。

双方とも、一理ある。そのため、姉妹による大喧嘩に発展してしまったそうだ。

たしかに、モノである以上、使えば使うほど摩耗し劣化していくことは避けられない。ともすれば、使わずにずっと飾っておくという行為は、「大事にする」という意味においては大正解だ。考えようによっては、とても日本人らしい発想だとも思う。

日本人は、とても大事に車を扱うことで有名だと聞く。海外に行けば、雑に運転する光景は日常茶飯事で、車体をガシガシとこすり付けるように路駐することも珍しいことではない。そのため、サイドミラーが破損していたりする。

旦那さんの心中としては、プレゼントした以上使ってほしい、そう憶測するのが一般的だけど、愛する妻から「飾っているのが一番なの」と言われれば、そう思うよりほかない。

“モノを大事にする……いや、しているのか”問題。この手の話題は、都市部より地方部や田舎部で、たびたび思い当たる節がある。例えば、お金だ。

都市部の場合、お金というのは“使う”ことで、生活にバラエティが生まれる。反面、なかなか使い道のない非都市部ともなれば、お金というのは、“貯める”ものになりがちだ(もちろん個体差はあるだろうが)。そういった感覚が日常を占めていくと、前述したバッグを飾る――的な行為も不自然なことではなく、なんだったら最大の寵愛になりえる。

妹さんはこういったそうだ。

「いつ死ぬかわからないのに、プレゼントされたばかりの大事なものを飾っているのは馬鹿げている」

そうなのだ。死ぬかもしれないし、火事になるかもしれない。それゆえ、第三者である俺は、「使うべき」だと考える。仮に、俺が当事者だとしても、やっぱり「使う」だろうし、使ってほしい。

プレゼントした旦那さん、精魂込めて作っただろうかばん職人、そしてそのバッグを持って出かけることで話題が生まれる可能性……、家に飾っているだけでは生まれない波及効果があるはず。タンス預金は、ものごとを循環させない。でも、これはお姉さんにプレゼントされたもので、決定権はすべてお姉さんに委ねられている。「私が幸せであれば十分」と思うのであれば、やはり外野は口出しできない。やっぱり姉妹で大喧嘩になったのも納得だ。

モノを大切にするというのは、本当に難しい。

人によっては、雨の日に絶対に履かない靴があると思う。だけど、晴れの日にしか履かない靴って、モノを大事にしているとも受け取れる一方で、せせこましさも感じてしまう。汚してしまおうものなら、烈火のごとく腹を立て、他者を不安にさせてしまうに違いない。物を大事にしているのか、自分勝手なのかわからない。ごく自然に履けるから“愛用”とも言える。

特別なときだけ愛用する、その言葉にはどこか二重基準を感じてしまう。授業参観日のときの母親のよう。あんなにおめかしした母親は、外用で特別、不自然だ。

モノはやっぱり使った方がいい。モノを大事にする=愛情を注ぐということだとすれば、人によって愛情の注ぎ方は十人十色だろうけど、「使う(愛用)」以上のダイレクトな注ぎ方はないのではないかと思う。

愛すべき人には、常日頃から「愛している」と口にした方がいいのと一緒だ。言葉にしないことで、愛情を表現できることもできる。パートナーも、それを理解していると思う。でも、言葉にすることが一番相手に伝わるはずだ。体現することが、やっぱり一番尊い表現なのではないかと思う。

徳井健太の菩薩目線第100回 約2年半。菩薩目線100回を経て、 仕事、コンビ、いろいろ考えてみた。

2021.06.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。記念すべき第100回目を迎え、新たな決意とともに独自の梵鐘を鳴らす――。

 

“公立と私立、どちらに進学させた方が子どもにとっていいのか”について考えた初回から、早いもので『菩薩目線』が100回を迎えた。

 

『俺は、自分の子どもにいろいろなタイプの子どもたちがいることを、自我が目覚める中学時代に知ってほしかったんだよね。例えば、どんくさい子や要領の悪い子がいたとする。そうすると、世の中にはそういう人たちがいて、すべてが自分のペースでいくことはないってことを、何となく理解すると思うの』

(第一回目『「考えられる」子どもに育ってほしいなぁ』より抜粋)

 

1回目は子どもについて考えていた。それから嫁と距離を置くことになるなんて思いもよらなかった。時間は進んでいるんだ。

『菩薩目線』は、毎週ラジオをやっているような感覚に近いかもしれない。一カ月に三つ、コラムになるような話を探さなければいけないということを意識しながら生活をしていたところがあって、メモ帳に何かを書き留めておく量が増えた。

振り返ると、俺は日々の中で何か起こってもスルーしてしまうことが多かったように思う。スルーというか、気に留めないというか。でも、『菩薩目線』で何気ないことを披露したり、人前で何かエピソードを話したりする機会が増えたことによって、意識的に気に留める心構えができたことは大きかった。

文字というのは、面白い。トークにすると弱いと思ってしまうような出来事も、成文化すると面白いかどうかは別にして、一石を投じる機会につながる。笑える笑えないで測れないのも、コラムならではの醍醐味だと思う。自分を客観視したい人は、文字にして残しておくといいかもしれない。

例えば、どこかへご飯を食べに行ったとする。美味しいお店に行くのもいいし、ハズレを引いたっていい。どちらに転んでも、それなりに自分の中で咀嚼できる。小さなことかもしれないけど、文字通り小さなことを一つずつ噛みしめられるようになった約2年半。いったん心の中で気に留めておくというプロセスが、今の仕事につながっているところはあるのかも、なんて思う。

仕事でもいろいろあった。腐り芸人から始まって、気が付くと多様な番組やイベントに出させてもらっている。コロナという状況の中にも関わらず、俺に声をかけてくれることに感謝しかない。

仕事が多岐にわたると、想像力も豊かになっていく。以前の俺は、同業者である芸人と接する以外であれば、ディレクターとの打ち合わせが仕事上、もっとも多かった。ディレクターは、あくまでディレクターであって肩書きでしかない、そんな印象があった。それゆえ、ディレクターという仕事がどんな仕事をしているのかあまり関心がわかなかった。

ところがいろいろな仕事の景色を見ていくと、このコラムの担当編集との打ち合わせしかり、仕事というのは誰かの悔恨の念や責任の上に成り立っているものだと、ようやく理解できた。打合せに臨むディレクターは、方々に頭を下げた結果、当日俺と打ち合わせをしているのかもしれない。

“徳井でいきたい”というリスクを背負っている誰かがいる。その人たちに恥をかかせてはいけない。そう自分の中で思うようになったのが、『ゴッドタン』の腐り芸人あたりからだった。『菩薩目線』の中でも何度か触れているけど、恥ずかしながら35歳を過ぎて、ようやく自覚することができるようになった。

俺が“好き”で関わっているものって、どういうわけか長続きする傾向にある。

ケータイよしもとのコラム『ブラックホールロックンロール』は150回を突破し、MBSラジオの『オレたちゴチャ・まぜっ!』も約10年担当させてもらった。そういえば、グランジの五明と(元ミルククラウン/現怪獣の)竹内と行っていたライブイベントも10年くらい続いた。

山登りが好きなんだろう。みんなが音をあげている中、ただ黙々と登っていくのが好きだったりする。 『菩薩目線』も長く続いてくれたらありがたい。

節目を迎え、今後の目標でも綴ろうと思ったけど、精一杯やるだけだ。願わくば、相方である吉村には、もう一段売れてほしい。それこそ、あいつが MCを担当するようなレギュラー番組でも持ってくれたら、吉村はもう俺を気にすることなく活動ができるはずだ。

俺のことなんて眼中に入らないくらいに売れるのが理想だ。あいつは俺を見下してるくらいがちょうどいい。中途半端に俺に嫉妬したりすると、俺にとってもあいつにとっても良くない。だから早く、もう一段階売れてほしい。次の節目では、そうなっていることを願ってやまない。

徳井健太の菩薩目線第99回 10年分のまい泉ダブル。俺が「弁当芸人」になっても温かく迎え入れてほしい。

2021.05.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第99回目は、『ゴッドタン』の腐り芸人企画で発した一言について、独自の梵鐘を鳴らす――。

『ゴッドタン』の腐り芸人企画で、“出演しているボートレース番組の収録に行くと、いつも弁当がない話”をした。

 約10年間、番組に出演するも弁当があったことはなく、この番組は弁当が存在しないものだと思っていた。ところが、初めて来たゲストの楽屋に弁当があることを目撃してしまい、そのことをスタッフに告げると、「(俺の楽屋に)弁当を置き忘れていた」と恬然と言われた。

 待て待て待て。10年間、弁当を連続して置き忘れるなんて天文学的確率じゃないか。いくらなんでもそれは厳しいだろ。俺は驚愕し、その一部始終を『ゴッドタン』でお話させてもらった次第だ。

 その後、北九州にある「ボートレース若松」へ仕事で行くと、今まで見たことがないようなボリュームの弁当が置いてあった。「美味そう~」じゃなくて、「高そう~」という感想が、真っ先に出てしまうような弁当。 しかも、寿司なんかもついている。法要かと錯覚するくらい豪華だった。

 ん……? もしかして。『ゴッドタン』の放送後だから、「俺はイジられているのか……?」。無粋だとわかっていたものの、気になってしまった俺は恥を偲んで、「ゴッドタンの影響ですか?」と聞いてしまった。すると、関係者は「北九州ではタイムラグがあるため、まだ腐り芸人の回は放送されていない」と説明してくれた。

 邪推だった。そもそも「ボートレース若松」のおもてなしは厚く、昔から弁当が豪華なことは知っていたはずじゃないか。自分の発言に、おのれが踊らされてどうする。しっかりしろ、俺。

 ところが――。その後、今まで弁当が出ないような番組にも、弁当が出るようになっていた。なんだろう。すごくよくない。“すげえ弁当にうるせえ奴”って思われているんじゃないのか。俺は、不安にかられた。

 予感は、往々にして的中する。ABEMAの競輪番組のリハ入りに少し遅れてしまったときには、共演者の安田大サーカスの団長から「どうした? 弁当あるかないかで揉めたんか?」と声をかけられた。待て待て待て待て。弁当にうるさいキャラ、一歩手前……いや、なっているじゃないか。

 某日。

 俺は、『ゴッドタン』の番組内で、“とあるボートレース番組で弁当が出ない”としか言っていない。つまり、オブラートに包んで説明したわけだけど、その“とあるボートレース番組”が同じスタッフのままリニューアルすることになったという。そして、再び俺に出演者としてお呼びがかかった。

「弁当があったらどうしよう」。収録前からドキドキしていた。これまで10年間なかったのに「あるわけがない」、そう自分に言い聞かせていた。人間は変化を恐れる動物だ。だから、不安を感じる。このドキドキは期待なんかじゃなくて、純正の不安だ。“すげえ弁当にうるせえ奴”なんかになりたくない。

 恐る恐る楽屋の扉を開けると――、弁当が置いてあった。しかも、まい泉。しかも、二つ。やばいな。未知との遭遇だ。

 親に内緒で子猫を拾って帰ってきたような、誰にも相談も説明もできない緊張感を抱きながらリハに臨むと、「番組応援コメントが流れるので、それを選んでもらっていいですか」とスタッフから指示を受けた。ぶっちゃけ、それどころじゃない。 まい泉が二つも置いてあったんだぜ。

「は、はい」。気の抜けた返事をする俺。を見透かしてか、流れはそのままに、突然、スタッフが「ゴッドタンで仰っていましたよね。弁当がないって」と、ぶっこんできた。このタイミングで!? しかも、「そのことも踏まえてもらっていいですか」とまでリクエストしてきた。がっつり来てるじゃねえか。というか、どう踏まえるんだよ。

 虚を突かれた俺は、オープニングの挨拶で開口一番、「皆さん! 弁当がありました!」と爆発してみた。スタジオは大爆笑だった。待ってましたと言わんばかりに、弁当ネタをイジる、イジる。

 お笑いっていいなと思った。言ってしまえば、俺の発言は陰口みたいなもので、小言や愚痴の域を脱していない。俺の小言が独り歩きし、勝手に何かを生み出していくなんて想像できるわけがない。

 でも、お笑いにはそういう小さい奇跡が起こる。正々堂々と弁当(しかもまい泉!)を用意して、陰口に近い言葉を吐いた俺を呼ぶ――、そんな狂気の沙汰の喜劇。本来、「負」であったかもしれないことが、お笑いやバラエティでは「正」にひっくり返る。

 10年分のまい泉ダブル。俺は弁当にうるさいわけじゃないけど(なんだったらなくてもいい。ただ、「置き忘れた」の苦しい説明はひどいだろと話したかっただけ)、これは「どうするぅ!?」以来の天啓かもしれない。ある日突然、弁当ネタを話し始める弁当芸人になっていたとしても、温かく迎え入れてほしい。

 ゆくゆくは、『ノブコブ徳井とコラボ! ファミリーマート限定弁当』とか登場しちゃうのかな? そんな妄想のきっかけを与えてくれた『BOAT RACEライブ 〜勝利へのターン〜』さん、まい泉、美味しかったです。ごちそうさまでした。これからもよろしくお願い致します。

徳井健太の菩薩目線 第98回 よく理解していないまま、ひとまず「了解しました」と送る意味はあるのか、ないのか問題

2021.05.20 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第98回目は、「了解しました」をめぐる攻防について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 時代の流れと言うべきか、昨今は自分がよく出演させてもらう番組の事前確認を、グループLINE経由で行うことが珍しくない。スマート化、デジタル化の波は、官公庁だけではなく芸人界隈にも届いているらしい。

 規模が大きい番組とは違い、インターネット番組を含めた小規模な番組であれば、関与している演者やスタッフの数は、せいぜい十数人。そのためグループLINEで一斉に通知した方が効率的だし、俺自身も不自由を感じることはない。

 例えば、進行のスケジュールなどが送られてくる。すると、十数人が「了解しました」的な簡単なレスポンスをする。ところが、これを良しとしない異端児が現れた。番組でSEを担当する20代の女性スタッフ・A子さんだ。彼女はSEという技術職ゆえ、A子さんにしかできない役割が多く、新人にもかかわらず番組製作上、重要なポジションにいる期待の大型新人といったポジションだ。

 親方であろう同じ制作会社の社長(40代)から、グループLINEを通じてさまざまな確認事項が送られてくる。しかし、A子さんは絶対に「了解しました」と返信しない。要するに既読スルーを貫く。ときには、社長に対してタメ口をすることも珍しくない。これがさとり世代、Z世代……なんて、俺は老婆心を丸出しにしてしまう。

 ある日の番組収録直前。日々のいらだちが募っていたのか、社長が先の件に言及し始めた。「お前さ、LINEの連絡に『了解しました』とかレスポンスしなきゃダメだろ」と、軽く叱責し始めたのだ。

 すると、彼女は「なんでですか? そんなことする意味ありますか?」とブチかまし、真正面からがっぷり四つに組みにいった――。こいつ死ぬ気か。

「あ、わかりました」なんて具合に、適当に流すと思っていた俺は面を食らい、しばらく二人に釘付けになってしまった。「意味あります?」の一点突破で社長を土俵際へと追い込んでいくA子さん。負けじと「意味あるだろ」と押し返す社長。世代を超えた大一番。番組収録直前に、場外乱闘で盛り上がるのはやめてほしい。

(A子)「十数人が『了解しました』って返していますけど、本当に中身を理解して“了解しました”と返している人が何人いるってわかるんですか? 私が『了解しました』と返したところで、私が本当に理解して了解しているのか、社長にはわかるんですか? そんな確認しようのない了解に、何の意味があるんですか? 意味あります?」

 強ぇ。正論といえば正論、いやド正論かもしれない。だが、たじろぎながらも社長も反撃する。世代的には俺と近い社長にシンパシーを感じてしまうものの、先の理屈はなかなか筋が通っている。一体、どう反論するんだろう?

(社長)「うちは小さい制作会社だからみんながきちんと共有しないとトラブルになる。既読スルーだと確認したかどうかがわからない。“読んだ”という意思表示の意味で『了解しました』でもなんでもいいから一言返事をよこせ」

 これも納得だ。既読と未読では天と地。既読で行き違いがあれば、「お前、きちんと読んだのか?」と言えるだろうけど、未読で行き違いがあれば大火傷に発展する可能性だってある。しかし、彼女はこの点を鋭く突き返す。

 (A子)「やっぱり分からないですね。『了解しました』とは打てますよ。で、打ったところで 、打つ前と打った後で何か変わることがありますか?」

 恐るべしA子。既読だろうが未読だろうが行き違いが生じれば、どのみち「トラブル」という結果にいたる。だからこそ、「本当に中身を理解して“了解しました”と返している人が何人いるかなんてわからない」の一言。理解していない了解に意味なんてないのか……。

(社長)「あるだろ! 例えば、『いま到着しました』って返信が返ってきたら、無事に届いたんだなって安心するだろ? それと一緒で応答は大切だろ」

(A子)「それはわかりますよ。私だって誰かが来なかったら『どうしました?』って言いますし、私自身が遅れていたらきちんと理由を述べて連絡します。でも、全員に向けたグループ LINE、その問いかけに応える場合の『了解しました』は意味がわからない。だから、送りたくない」

 名勝負とも泥仕合ともとれる様相を呈したまま、 本番はスタート。 俺は勝負の続きが気になって、それどころじゃない。番組が終了すると、なんとなくギスギスした雰囲気があたりを包み、議論は再開されることなく、結局、結論は水入りとなった――。

 翌月、もろもろの連絡が、再びグループ LINE に飛び込んできた。俺は火種の動向を見守った。もちろん最注目は、A子さんがどんな対応をとるかだ。なんせ「送りたくない」ってはっきり言っちゃったわけで、どうするのか気にならないわけがない。

 あの日、二人のバチバチを最前列で見ていた他のメンバーは、「よろしくお願いします。次回は●●で~」という具合にやたらと丁寧にレスを送るようになっていた。過去一、グループラインが仕事の連絡網っぽくなっていた。

 「了解しましたと打ったところで、本当に理解しているのかわからないから打つ必要がない」と主張したA子さんと、「スルーだと意思表示すらもわからない」と反論した社長の言い分、その良いとこ取りをしたような丁寧なレスポンス。みんな、感化されてしまっていた。

 だが、肝心のあの子はどうするんだろう? どんな表明をするのか、俺は固唾を飲んで、そのときを待った。

「確認しました」

 裏返っていた。しかも、きちんとその後に内容について記述している徹底ぶり。彼女がどういう思いで「確認しました」と返信したのかは定かではない。もしかしたら、嫌々応じているだけかもしれない。でも、その子の言い分は正論だったし、自分の主張を臆することなく、上司に伝えた姿勢は考えさせられるものがあった。

 そして俺も、これまで既読スルーし続けていたことを反省し、はじめてグループLINEに「了解しました」と送信した。

徳井健太の菩薩目線 第97回 染み付いてしまった新しい常識、感覚は変えられない。目先のことを考えるのは、もうやめにしよう。

2021.05.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第97回目は、三度目の緊急事態宣言がもたらす影響について、独自の梵鐘を鳴らす――。

三度目の緊急事態宣言が発令された。

コロナに関する有象無象については、このコラムでもたびたび触れてきた。“たびたび”ということは、それだけコロナが収まっていないことを意味するわけで、今なおトンネルの出口は見えやしない。

先日、先輩であるくまだまさしさんと話す機会があった。この人は、吉本の営業キングといってもいいくらいで、吉本の社員の中には、緊急事態宣言のあおりをもっとも受けた芸人はくまだまさし――とまでいう人がいるほどだ。

くまださんほど、数多く営業の仕事をしている人を見たことがない。おととしの12月は、なんと営業が月18本もあったそうだ。お祭り、学園祭、ショッピングモール……そんな営業キングが今年のゴールデンウィークは、すべての営業が吹っ飛んだと漏らしていた。 

元々、さほど営業をしていない芸人が、こういった状況下で窮するのは理解ができる。でも、キングであるくまださんが窮するのは理解に苦しむ。おそらく、くまださんが営業で食えなくなるということは、すべての芸人が営業で食えないことを意味する。コロナは、大きすぎるくらいの試練を与えている。

こんな調子が続くようでは、営業以外の仕事にも、より顕著に影響が出てくる可能性が高い。先日、加藤(浩次)さんがMCを務める『北海道スタジアム』(NHK)という3時間を超える生放送番組に、プレゼンターとして出演した。もし放送時に緊急事態宣言が発令されていたら、東京在住の俺が北海道に行くことはなかったかもしれない。番組自体も延期、中止になった可能性だってある。

何カ月も前から準備していた企画や番組が、コロナによってひっそりと立ち消えになったケースだってあるだろう。そんな話は聞きたくない。「実はこんな大きなチャンスがあったんですけど、コロナの影響によってなくなってしまったんです」なんて言われたら。聞かぬが仏。これ以上、何かを下げることはしたくない。

この先人々は、コロナとどう付き合うんだろう。なんてことを考えたとき、コロナは予防意識をがらっと変えてしまったんじゃないかと思った。例えば血液。血液感染症は、血液が傷口や粘膜に付着するで引き起こされる感染症だ。調べてみるとAIDS(HIVによる後天性免疫不全症候群)、HCV(C型肝炎)、HBV(B型肝炎)、梅毒などが該当する。

こういった病気が一般的に知られるようになる前までは、誰かが出血したとして、血液を過度に恐れることはなかったのではないか。ところが、血液を介した感染経路があることが知れ渡ると、無意識下で血に触れないように、多くの人が行動することが当たり前になった。

それがいま、咳になってしまった――と思う。電車の中で誰かが咳き込むと、多くの人が視線を向け、ときには車両を変える人もいる。そういった意識が、この1年の間に不自然なものではなくなってしまった。仮にワクチンが摂取でき、コロナに対してある程度免疫がつく世の中になったとしても、染み付いてしまった新しい常識、感覚というものは変わらないんじゃないか、なんて俺は思う。

コロナ以前と変わらないように営業している飲食店や、そこに足を運んでワイワイと盛り上がっている人たちを見ると、幻想を覗いた気分になる。その行為が正しいとか正しくないとかの話ではなく、ただただ過去の世界の景色を見ているような気になってしまう。

日本人は目先が好きだ。ランチ代で毎日1000円を使うとなると、ひと月2万~3万円の出費になる。1年間で約30万円。「食費だから仕方ない」とほとんどの人は答える。でも、2万円の自転車と6万円の自転車どちらを買うか――となると、どういうわけか安いほうを選びたがる。

4万円多く出したことによって、どんなメリットが生じるか。を考える前に、安さに食指が伸びる。いわく、「食費じゃなくて雑費だから」。でもどうだろう? 実際のところは、“ただただ安い”とか“コストパフォーマンスが良い”……そんな理由だけで選んでないか。目先の事しか考えてないよね?って。

安さでモノを選ぶことも大事だ。でも、目先のことだけ考えていたら、大きなしっぺ返しを食らう。コロナに関しても、同じようなことが言える状況にあるんじゃないのって思うのだけれど。お上も目先の事ばかりを追って、俺たち生活者も目先のことばかり考えている。収まるものが収まらないのも仕方ない。

そして、メディアが報じたことを国民はネットやSNSを通じて声高に叫び、その様子を見たお上が顔色をうかがい始める。意思決定がSNSを通じて行われているようで、これはもう革命なんじゃないかと錯覚する。一体いつまで続くのか。ワクチンが摂取できたとしても、ホント、一体いつまでこんなことを繰り返すんだろうと思う。

徳井健太の菩薩目線 第96回 本気と狂気は表裏一体。『バス旅』の太川さんは、アスリートだった。

2021.04.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第96回目は、出演した『ローカル路線バス対決旅 路線バスで鬼ごっこ!』について独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 1月20日に放送された『ローカル路線バス対決旅 路線バスで鬼ごっこ! 群馬・高崎~伊香保温泉に出演した。

 番組を見た当コラム担当編集A氏から、「書ける範囲で構わないので、バス旅に出演した感想を教えてほしい」というオーダーを受けた。A氏は、無類のバス旅ファンらしく、2007年に放送された第一回「横浜~富山」以来、ほぼ全シリーズ見ていると豪語するバス旅原理主義者らしい。

 それにしても、なぜ俺にお鉢が回ってきたのか? 2日間拘束だから、ある程度スケジュールに余裕があったり、勝負に対してガッツがあったり、場を和らげられたりする人が求められるだろうし、単にギャンブル好きで怠け者という性質がたまたま蛭子(能収)さんとリンクしただけかもしれない。番組サイドのみぞ知るところだが、実際問題として俺自身も「蛭子さん2世」的な役回りで旅に参加しようとした。

 ところが、テレビの法則をぶっ壊していくようなロケの連続で、それどころではなかった。俺は、恍惚と不安を覚えた。『(株)世界衝撃映像社』という番組で、なかなか壮絶なロケを経験してきた自負もあった。でも、『バス旅』はまったく異なる激しさ。“辣”の辛さと“麻”の辛さが違うように、『バス旅』のそれは文字通り痺れるようなロケだった。

 太川さんは、カメラマンを追い抜いて先を急ぐ。番組中でも触れたけど、若手の頃に、「カメラマンを追い越すな」とさんざん教わった。共演者に距離的なひらきが生じれば、どちらを撮っていいかわからなくなるため非効率的になる。だけど、太川さんには、そんなこと関係ない。

 スタッフが用意している展開を先読みすることは、台本を覆す形になりかねないため、極力流れに沿ってロケをしていく……はずが、太川さんは次の展開を先読みして、あらゆる方面のバスの時刻表をメモしておく。ロケなのに、千里眼の能力を発揮してしまう。

 当初、ダメキャラで蛭子さん的に振る舞うことを考えていたものの、バラエティの常識が通用しない、見たことのない世界線を歩いている太川さんと、勝手がわからず戸惑っているだろう筧美和子さんの間を往来し続けた結果、気が付くと俺はバランサーになっていた。

 過去イチ、過酷なロケだったかもしれない。『(株)世界衝撃映像社』はコンビでロケをしていたから、負担を折半できるところがある。例えば、吉村が筧さんをケアし、俺が蛭子さんのように適当なことを言って太川さんを困らせるといったことができる。が、バス旅ではコンビ特有の分身の術が使えない。12時間カメラを回し続け、そのテンションが2日間続く。下手な海外ロケよりも、頭も体も回し続ける。

 そして、時折、太川さんの狂気がほとばしる。狂気研究家でもある俺は、太川さんの狂気に酔いしれた。どんな部族よりもアイデンティティーが太かった。太川さんは、昭和50年代を代表するスターだ。そのため、カメラが勝手に追って自分を映すという覇道を歩む人なのではないか。対して、俺をはじめとした数多のタレントは、カメラを振り向かせるために手練手管を弄し邪道を歩む。その対比が、画面では面白おかしく伝わるのかもしれない。そして、蛭子さんの奇想天外な言動だけが、唯一、太川さんを覇道から脱線させることができたんだろうなとも思う。

「勝負に勝ちたい!」という欲本来に則るなら、ご褒美やら賛美やら、そういったものがないと人は頑張れない。がんばれる動機があるからこそリアリティが増す――と考えるのが一般論だが、太川さんにはそんなものは関係ない。負けたくない、勝ちたい、その一点で勝負をしている姿は、もはやアスリートと言っても過言ではないと思う。太川さんはタレントの域を超えて、もうアスリートの領域にいるんだなと思った。

 終盤、太川さんはカラオケボックスで鬼の形相になる。でも、『バス旅』がバラエティではなく、スポーツだと考えると、勝利のために相手チームに対して、憤怒の相を浮かべたのも納得だ。バラエティでは、なかったんだ。もっと言えば、テレビですらないのかもしれない。

 実は、あのカラオケのくだりでは、相手チームが到着する前に、「何を歌うか?」という話し合いをした。番組的にも『Lui-Lui」』を歌った方が盛り上がると思い、「太川さん、お願いしますよ」とアプローチしてみたものの、「無理無理!」とガチめに断られたので、俺がTHE YELLOW MONKEYの『プライマル』を熱唱するという、誰も聴きたくないだろう一幕があった。もちろん、全カット。からの相手チームの突撃、そして鬼の形相。あんなに濃いカラオケは、もうないと思う。

 番組は、信じられないような結末を迎える。結局、人間が本気になったら想像ってものは超えてしまうんだろうな、と思った。本気と狂気は表裏一体なんだ。

徳井健太の菩薩目線 第95回 ばあさんから「ブふぁぁッ!」とリアクションされ、俺は新宿区は魔界だと理解した

2021.04.20 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第95回目は、魔界のような喫茶店について、独自の梵鐘を鳴らす――。

変な喫茶店だった。

新宿区。純喫茶といえば、純喫茶なのかもしれない。表には、「昔懐かしのナポリタン」なんて掲げられていた。でも、インベーダーゲームはない。

中に入ると、ビー・バップ・ハイスクールに登場する不良たちがたむろしていてもおかしくないような空間。テーブルも低ければ、イスも低い。サイフォン がコポコポと心地よい音を奏で、豆を挽いてから作り出す本格派の喫茶店の匂いも漂う。純喫茶なのか。

老夫婦が営む。一つだけ言えるのは、令和の時代にまだこんな喫茶店があったのかということだった。

ただ、なんでだろう。清潔感を含め、「大丈夫かな」と感じてしまった。なぜ、そんなことを思ったのか……。直感としか言いようがないのだけれど、こんなにも遺産チックな喫茶店にめぐり合えたうれしさよりも、嫌な予感が勝った。

そんな杞憂を吹き飛ばすかのように、年老いたマスターが煎れたコーヒーは、とても美味しかった。気のせいかな――。用を足そうとトイレを探すと、どうやらカウンターの奥にそれらしき扉がある。その手前では、マスターの奥さんと思しきおばあさんがカウンターに腰掛け、飯を食っている。

おばあさんの後ろを通ろうとしたその時、飯の手を止めた彼女から「あん!? 何?」と牽制された。トイレに行く旨を伝えると、

「ブふぁぁッ!」

と、汚いものを見るようなリアクションと擬音が轟いた。意味がまったくわからなかったが、用を足しながら俺なりに考えてみた。どうやら飯を食っている最中に、「トイレ」という言葉を耳にしたがゆえの「ブふぁぁッ!」――なんだろう。

だとしても、話かけてきたのはおばあさんだ。それに、お店を見渡したところ、トイレはカウンターの奥にしかないことが、初来店の俺ですら想像できたわけで、おばあさんだってトイレに向かったことくらい予想がつくはず。そもそも、トイレ以外に店内をうろつく理由が他にあるなら教えてほしい。なぜ、「ブふぁぁッ!」と侮蔑まじりのリアクションをされなきゃいけないんだ。

席に戻るため、再びおばあさんの、いや、ばばあの後ろを通ると、ふつふつと込み上げるものを自覚した。せっかく美味かったコーヒーも苦さが舌に残るばかり。悲しいかな、入店時の直感は正しかった。

一息つこう。そう思って座ろうとすると、俺の席の後ろに壁紙が貼られていることに気が付いた。目で追うと、

「すべてが普通ではありません」

と直筆で書かれていた。本当に、直感は正しかった。壁紙には続きがあって、「病気を患っているがゆえに何十年間作ってきたメニューもなくさざるを得なくなりました」といったことが書かれ、最後に「だから、すべてが普通ではないんです」と念を押すように強調されていた。

すごい店を見つけてしまった。「すごい」が、もはや何を意味しているのかわからないけど、とにかくゾクゾクするものを感じた。

すべてが普通ではない店は繁盛していた。本日のコーヒーが一杯300円だからか、タバコが吸えるからか。すべてが普通ではないはずなのに、ひっきりなしに客が来る。サイフォンは、延々とコポコポと鳴っている。

マスターの仕事は丁寧だった。よく見ると、身体をかばうようにコーヒーを煎れている。カウンターのばばあは新聞に目を配らせ、冷え切った飯が所在なさそうにしている。「食わねぇの!?」とマスターが聞くと、「いらない」と即答していた。すべてが普通ではないんだ。

新宿区には、魔界のような店が残存している。鈍く光って、口を開けている。店をたたんで土地を売った方が、余生を楽しく生きられそうなもんだけど、理屈じゃないんだろう。でも、そんな普通の尺度で測ったら、こっちが痛い目を見るだけ。常軌を逸しているから面白いんだ。

「すべてが普通ではありません」の効果たるや。お札が邪気を払うように、この一言があるだけですべてがひっくり返る。何も言えなくなる。言ったもん勝ち。俺は、最高の店にめぐり合ったのかもしれない。

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