今年のノーベル化学賞に、リチウムイオン電池を開発した吉野彰さん(旭化成名誉フェロー)の受賞が決まりました。いまや携帯電話やノートパソコンに不可欠なリチウムイオン電池。吉野さんが80年代に原型を開発してから30年余り、21世紀のIT社会はこのイノベーションなしにあり得ませんでした。
日本出身の科学者の受賞は、吉野さんが30人目ですが、歴代受賞者の多くが大学の研究者。吉野さんは江崎玲於奈さん(1973年物理学賞、IBM)、田中耕一さん(2002年化学賞、島津製作所)らに続く、民間企業所属の研究者として受賞されたことは大変価値あることだと思います。というのも、官民問わず、研究に投資することの大切さをあらためて認識する契機と思うからです。
資源がない日本は、人の知恵こそが富の源泉のはず。ところが官民とも心許ないのです。政府の科研費への投入額は、小泉政権の頃までは順調に伸びていましたが、次第に2000億円未満で頭打ちに。これを文科副大臣時代の私の肝いりで基金制度を導入し、2011年度は一気に2600億円まで増やしましたが、近年は2200億円台で横ばいです。
一方、民間企業の研究費は昨年が13兆7989億円(総務省調べ)ですが、こちらも実はリーマンショック前の水準にやっと戻した感じです。日本企業の内部留保が7年連続で過去最高となる463兆円にのぼったことを考えると、十分な投資をしているのか議論の余地はあるのではないでしょうか。
今回の吉野さんの受賞の報に、中国メディアでは日本を見直そうと呼びかける論調もあったようです。それはそれで誇らしいと思うものの、彼らは官民とも研究開発にケタ違いの投資をしています。日本は、少子化や理科離れという懸案を抱え、この30年、相対的には投資が不足しています。気がつけば、毎年アジアからの受賞者は中国勢ばかりとなり、日本のプレゼンスが地盤沈下してツケを払う事態は絵空事ではありません。
毎度のことですが、日本人のノーベル賞受賞が決まると、マスコミはお祭り騒ぎ。肝心の研究の中身のことは小難しいからとばかりに、受賞者の人柄や生い立ちなどのヒューマンストーリーに焦点が集まりがちです。
吉野さんたちの世代の受賞が「最後の砦」になるのか。浮かれている場合ではありません。科学や研究開発に対する日本社会の総合的なリテラシーが問われているのです。