去る11月29日、大正、昭和、平成という激動の時代を駆け抜け、令和新時代の幕開けに係る全ての儀式が滞りなく執り行われたのを見届けるように、中曽根康弘元総理が101歳の天寿を全うされた。生前に賜ったご指導に深く感謝しつつ、心より哀悼の誠を捧げたい。
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【長島昭久のリアリズム】トランプ政権の外交・安全保障政策を占う
昨年の暮れ、臨時国会閉会直後の12月19日、私は同志の国会議員たちとワシントンを訪れ、ドナルド・トランプ次期大統領の政権移行チーム中枢と意見交換を行ってまいりました。
私たちの最大の問題関心は、トランプ次期政権で米国の外交・安全保障政策(日米同盟を含む)がどのように変化するか、とりわけ、我が国の外交安保政策に大きな影響を及ぼす米新政権の対中、対ロ政策の変化を読み取ることでした。
今回のワシントン訪問で得た印象を一言でいえば、トランプ政権の「アメリカ・ファースト」(アメリカ第一主義)外交に対しては相当複雑な戦略的「連立方程式」(人権や民主主義という普遍的な価値と、経済的な実利や地域紛争を収束させるといった当面の目的を両天秤にかけるなど)を解く覚悟が求められるというもので、具体的な特徴は以下の3つになります。
第一に、中国の台頭という世界史的な現象をオバマ政権に比べはるかに真剣に受け止めていること。トランプ氏がISLL打倒を強調するのも、実は中東を安定化することにより限られた資源をアジア太平洋正面に集中させようとしているのです。その目標を達成するためには、ロシアともシリアの独裁者アサドとも大胆に手を組む可能性を否定しません。
第二の特徴は、オバマ政権が主導した多国間の自由貿易協定や気候変動への取り組みを根底から覆す可能性。特に、石油王のレックス・ティラーソンを国務長官に、地球温暖化規制反対の急先鋒であるスコット・プルイット氏(オクラホマ州司法長官)やリック・ペリー氏(テキサス州知事)をそれぞれ環境保護局長とエネルギー長官に指名したことから、エネルギー安全保障における「アメリカ・ファースト」は明らかです。
第三に、同盟国や友好国との関係でも惰性や妥協を許さない姿勢。日本に対しては、米軍駐留経費負担や我が国の防衛努力不足についての厳しい指摘とともに、アジア太平洋地域の平和と安定をめぐる日本が果たすべき安全保障上の役割拡大についてもかなり具体的な要望を突き付けてくるでしょう。
はっきり言えることは、いよいよ日本が真の意味で「自立」する時を迎えたということです。自国の長期的な国益と地域の平和と安定、国際秩序の在り方を日本が主体的に考え抜いて、それに基づき安全保障でも経済でも環境エネルギー分野でも、米国のみならず中国やロシアの動きや意思決定にまで影響を与えるような戦略的外交力を確立せねばなりません。
トランプ氏が描こうとしている世界は、まさしく国力と国力が犇めき合うリアリズムの世界です。しかし、そのリアリティと真剣に向き合い、国力の回復と戦略の構築に努め国民的叡智を結集できれば、わが国の国益を拡大し得る活力に満ちた世界が眼前に広がると、私は確信しています。
(衆議院議員 長島昭久)
長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(番外編:立憲主義再考その一)
今年の憲法記念日を迎え、相変わらず、野党内にも、世間にも、憲法学者の間にも、集団的自衛権の限定的行使を容認した一昨年の閣議決定や、昨年9月に成立し今年3月に施行された安保関連法制に対し「戦争法だ」「憲法違反だ」「立憲主義の蹂躙だ」という声が鳴り止みません。そこで改めて、政府が閣議決定して修正した憲法解釈の憲法適合性について、私自身の考え方を整理しておきたいと思います。
まず、集団的自衛権の本質は「他衛」です。実際、過去に集団的自衛権が行使された事例を振り返っても、自国の存立が直接脅かされるというよりも、密接な関係を持つ同盟国などに向けられた武力攻撃に対しその国を守る、あるいはその国に加勢すること(すなわち、他衛)を通じて自国の安全や生存を図ろうとするケースが殆どでした。したがって、従来の政府の定義も「他衛」としての集団的自衛権であり、そのような自衛権の行使は我が国に対する直接の攻撃を排除する必要最小限を超えるものとなり憲法上認められないと結論付けたのです。そもそも政府は、憲法13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」との規定に根拠をおいて自衛権の行使を合憲と解してきましたので、現行憲法の解釈としてそのような「他衛」権を容認できるはずがありません。
ちなみに、「他衛」概念の集団的自衛権は、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」(昭和56年5月29日の政府答弁書)と定義されてきました。しかし、この定義からは、想定されている武力攻撃が我が国に対し直接向けられたものでないことは明らかであるものの、その攻撃により我が国の国民の生命、自由、幸福追求の権利がどのような影響を受けるかについては定かとなっていません。つまり、「自衛権の行使」といっても、自国に直接向けられた武力攻撃に対し反撃するしか選択肢が残されていないような差し迫ったケースというより、能動的に(自国と密接な関係にある)外国にまで出かけて行って、そこへ加えられている攻撃を実力で阻止するような態様を想定しており、受動的な自衛というより「他衛」というべき概念です。
ところが、今回、国際情勢の変化や軍事技術の進歩に鑑み「自衛」の視点(我が国に対する脅威の近接性、切迫性、および武力攻撃波及の蓋然性等)から改めて集団的自衛権をめぐる政府解釈の基本的論理を見直したのです。したがって、今回の閣議決定や安保法制を直ちに違憲、立憲主義の蹂躙などと断定するのは早計です。次回は、その根拠について明らかにしたいと思います。(衆議院議員 長島昭久)
長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その十)
長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その九)
我が国の歴史から安全保障を考える本シリーズも、いよいよ結論に近づいてきました。今回は、結論を急ぐ前に、8月14日に出された戦後70年の内閣総理大臣談話について、考えてみたいと思います。
率直に言って、この総理大臣談話は歴史的な文書となることでしょう。戦後50年の「村山談話」、60年の「小泉談話」、慰安婦に関する「河野談話」、日韓併合百年にあたっての「菅談話」など、これまでのいかなる歴史談話よりも具体的かつ詳細に反省すべき内容、感謝すべき対象(国および国民)を歴史的事実も踏まえ明記しました。そして、その反省に基づいて未来志向の決意を内外に鮮明にしたのです。その上で、歴代政権が示して来た歴史認識が今後も揺るぎないことを再確認しました。
中でも特徴的なのは、次の三点です。第一に、「国際秩序の挑戦者」という耳慣れないが国際関係論では重要な文言を使って、満州事変以降「進むべき進路を誤り、戦争への道を突き進んで」行った過去への反省とともに、暗に中国に対する牽制を行っている点です。第二に、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言い切って、これまで繰り返されてきた「謝罪外交」に終止符を打った点です。第三に、全体として英文調だということもじつに印象的でした。特に、後半部4段落連続で「・・・過去を、この胸に刻み続けます」(We will engrave in our heart the past)のくだりは、あたかも英文が先にあったような感覚に陥ります。いずれにせよ、世界に向けて発信することを念頭に置いて作成されたもので、極めて効果的といえます。
そのような中でなお不満が残ったのは、大正から昭和にかけての我が国が「国際秩序の挑戦者」になってしまった原因を世界恐慌後のブロック経済化に求めている書きぶりです。まるで外的要因にその非を転嫁しているように読めてしまい、醜い権力闘争に陥った昭和初期の二大政党制の未熟さ、止めどなき世論の激情とそれを煽ったマスメディア、凄惨な軍部の下克上など、我が国に内在する要因への真摯な省察が足りないように感じられました。
かくなる上で大事なことは、この談話に込められた反省と感謝を今後何世代にもわたって受け継ぎ、言葉ではなく行動で我が国の誠意と精誠を尽くして行くことだと思います。私も日本国民の一人として、国政を預かる政治家として、歴史に対する責任を果たして行きたいものです。
(衆議院議員 長島昭久)