他人に言わせると、私は本当に人を愛したことがない、らしい。
「何もかもを投げ打って一緒にいたい。」
「何もかもどうでもよくなるほど相手のことが好き。」
そんな気持ちを味わったことがないままに、結婚しないことを決めるなんて、おかしい。
11月の頭に私は、かつて深い関係にあった男性にそう言われた。
皆さんは結婚についてどう考えているだろうか。
私は自分の人生には結婚は必要ないと思っている。
本当に大切な人とは結婚しなくても一緒にいるだろうし、一緒に住むとかの物理的な距離感と精神的な距離感は別だと思うから、大切なパートナーとの将来を誓うという意味は結婚にはないと考えている。
加えて、仕事や趣味や考えたいことがたくさんあるので、結婚するかしないかで迷ったり、結婚の条件に合う相手を探す時間がもったいない。
端的にいうと、これらの理由から、自分は結婚するという選択肢を捨てた。
もし婚姻届けが契約書だとしたら、そこに書かれている項目が、人によって大きく異なる、または、だいぶ曖昧なのも気になる。
結婚をしたほうがいい、結婚をするべきだ、なんで結婚しないの?
そこでいう“結婚”という言葉が一体何を指しているかがぼんやりしているうちには、その答えは出せない。
婚姻届けが業務委託契約書の意味をもったものなのであればきっと、一人だけで生きるよりも、二人でできることが増えて、人生の可能性も増えるのだろうな。
反対に、婚姻届けによって自分の人生の全部もしくは一部の権利を相手に譲渡するような内容であれば、もったいないなと思う。
そんな契約書ひとつで、お互いに対する気持ちが変わらないことを表明するというのは、なんだかむなしいような。
他に好きな人ができるということもあるかもしれないし、例えば予期せぬ事件や事故をきっかけに気持ちが変わっていったり、仕事の変化で家庭に対する気持ちが変わっていったりというようなことは容易に想像できるので、やっぱり人と人とは、向き合って一瞬一瞬を積み上げていくことでしか関係性は積み上げられないのではないか。
とはいえ、友人の結婚を素直に喜ぶくらいのまともな感覚は持ち合わせている。
私の周りではこの一年くらい、仲良くしている人が何人か結婚した。
コロナ禍で云々ということではなく、長く付き合っていた人とたまたま今年そうなったパターンが多く、とても喜ばしいことだ。
友人の決定は友人自身のものだし、それを彼ら・彼女らが決断したことはとても尊いことだと思う。
さて、冒頭の話に戻る。
そんな風に私が結婚について難癖をつけるのは、本当に人を愛したことがないから、だそうだ。
結婚によって良い方向に変わることもある、ずっと愛し合える可能性もある。
それなのにその希望を最初から諦めるのは、ただの臆病だと言われた。
君はかわいそうな人生だ、もっと真剣にパートナーを探すべき、と言われて思わず、「私の人生の責任とるつもりもないのに、そんなこと言わないでよ!」と怒鳴ってしまった。
どんなドラマだ。
ドラマならここで、「結婚しよう」となるのかもしれないが、我々は今やそんな関係ではないし、やっぱりコイツのこと嫌いだわと強く思っただけで、何のロマンスも始まらなかった。
Twitterでも別の人にこんなことを言われた。
前回性的同意について触れた際、記事に紐づけてTwitterで、「同意を取ろうとして萎える相手であれば私とは合わないだろうし、我慢する必要はなかった」という主旨の呟きをした。
それに対して、幸せな家庭が想像できないかわいそうな人、本当に人を愛したことがない人は何を言ってもだめ、というコメントをいただいて、ショックだった。(現在は削除済み)
私が人を愛してないと、どうやって測るのか?
結婚しないからと言って、家庭をもたないからと言って、なぜ本当に人を愛したことがないと言えるのか?
結婚しない選択、子供を産まない選択をすることは何かおかしいのだろうか。
仕事をして、恋をして、表現をして、人生それ以外は、高望みする必要はないというのを決めるのは、おかしいだろうか。
それほどに、結婚は、家族は、良いものだろうか?
寂しい時に寂しいと言える友達、一緒に趣味を語り合って楽しみあえる仲間、愚痴や迷いを言い合える相手がいれば、私には十分なのだが。
結婚するタイミングがなかったわけでもなかった。
もう十年以上も前だけど。
同棲もしたし、親に挨拶にも言ったし、結婚する予定があった時期もあった。
でも私は気乗りしなかった。
最終的にはそれに気が付いた彼が、私のもとを離れていった。
そうだね、私は彼を心の底から愛していなかったのかもしれない。
自由と、孤独と、あと彼よりも少し仕事のほうを愛していた、と今になって思う。
婚活とか、転職とかして、一度今の環境をすべて変えてみたほうがいいのだろうか?
自分が置かれてる世界がおかしいから、なんだか他人から見て「足りない」ように見えているのかもしれない。
自分のいる環境を最大公約数的なマトモなものにしたら、誰かから太鼓判を押してもらえる私になれるかもしれない。
書いててくだらなさすぎて反吐が出そうです。
太鼓判なんていらないので、引き続き自由と孤独と仕事を心から愛して生きていきます。