去る11月29日、大正、昭和、平成という激動の時代を駆け抜け、令和新時代の幕開けに係る全ての儀式が滞りなく執り行われたのを見届けるように、中曽根康弘元総理が101歳の天寿を全うされた。生前に賜ったご指導に深く感謝しつつ、心より哀悼の誠を捧げたい。
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今こそ、日米同盟の「構造改革」が必要だ【長島昭久のリアリズム】
戦後長らく日米安全保障体制は、右からも左からも「不平等条約」の批判にさらされてきた。安保条約に基づいて締結された日米地位協定が在日米軍将兵に過剰なまでの特権的な地位を付与していることに対する怨嗟(えんさ)の声は、今なお根強い。そこに今度は、ドナルド・トランプ米大統領からの「不公平」批判である。曰く「米国は日本を守る義務があるのに、日本は米国を守る義務がない」。もちろん、在日米軍を支える我が国の負担は莫大で、そこから得られる米国の戦略的な利益は決して小さくなく、日米同盟関係はトランプ大統領が指摘するほど単純なものではない。しかし私は、大統領の疑問はシンプルだが、正鵠(せいこく)を射た指摘だと思っている。
たしかに、日米安全保障条約第5条によれば、我が国は「日本の施政の下にある領域」への武力攻撃に対してしか日米共同防衛の義務を負わない。じつは、米国が結んでいる同盟において、このような「不公平」な構造になっているのは日米安保条約のみである。たとえば、NATO(北大西洋)条約では、「欧州および北米」における武力攻撃に加盟国が共同対処すると明記されているし、アジアの同盟である米韓、米比、米豪においても「太平洋地域」における武力攻撃に対し締約国が共同で対処すると規定されている。いずれも「相互防衛条約」なのである。
一方、日米は相互防衛条約になっていない。したがって、その不公平性を穴埋めするために安保条約には「第6条」が設けられ、大要「極東の平和と安全のため我が国が米軍に対し日本が基地や施設の提供義務を負う」ことが定められたのである。この条項こそ、国内で怨嗟の的となっている地位協定の不平等な現実の根源に他ならないが、米国から見れば不公平性を埋め合わせる形で辛くも日米の「双務性」を担保する仕掛けになっているのである。この日米安保体制をめぐる不平等と不公平(その故に、日米同盟は不安定な軋みを伴うことになる)こそ、憲法に起因する「戦後レジーム」の象徴といえる。
こんな綱渡りの状態をいつまで続けるつもりなのだろうか。せめて米韓同盟のように「太平洋地域」においては日米が相互に防衛し合う対等な関係を構築できないものか。そこで、戦後レジームの下に幾重にも施された安全保障をめぐる過剰な縛りを克服し、厳しい安保環境に直面する我が国の平和と安全を確固たるものにするために、第二次安倍政権発足以来、秘密保護法制の制定、国家安全保障局(日本版NSC)の創設、平和安全法制の成立など着実に安保改革が積み重ねられた。そして、その改革の核心こそ集団的自衛権の行使容認なのである。今度は、その土台の上に、日米同盟を「相互防衛体制」に進化させ、名実ともにイコール・パートナーとして、インド太平洋の平和と安定と繁栄の公共財として機能させたいものだ。
戦後最悪の日韓関係をいかにすべきか(下)【長島昭久のリアリズム】
戦後最悪の状況に陥った日韓関係を打開する道筋は依然として見出せません。過去2回の連載を通じ、私は、今回の日韓衝突の核心が、これまでのような歴史問題をめぐる「被害者vs加害者」の構図ではなく、「自ら結んだ国際約束を守るのか否か」という国際関係の基本に関わる問題であることを明らかにしました。すなわち、戦後の日韓関係は、たとえ過去をめぐる様々な葛藤やわだかまりがあったとしても、東アジアの平和と繁栄という共通の目標に向かって、歴代の日韓政府はじめ両国民の真摯な努力によって築かれてきました。その土台となったのが、1965年の日韓請求権・経済協力協定です。それが日韓両国の共通理解でした。したがって、その共通理解を根底から覆すような韓国文在寅政権の姿勢が改められない限り、未来志向の日韓関係は到底望み得ないと考えます。
とはいえ、これ以上日韓関係を悪化させた場合、我が国の安全保障への深刻な打撃につながりかねないことは、前回の最後に触れました。したがって、何とか関係正常化の糸口を探りたいと思い考察を重ねた結果、私は、日米韓3か国相互にこれまでとは次元の異なる不信感が植えつけられてしまったことに気づいたのです。
すなわち、第一に、一連の韓国の「(国際)約束破り」が、これまで日本が韓国に抱いてきた「加害者としての呵責」のような感覚を吹き飛ばしてしまったことです。第二に、日本による制裁まがいの輸出管理規制が、従来のような「歴史を反省しない日本」という韓国人の対日イメージ(とくに高齢者世代に多い)を、「韓国の将来を侵害しようとする日本」(とくに若い世代)へ劇的に変えてしまったということ。第三に、韓国によるGSOMIA破棄が、日米両国の安全保障関係者から「中露朝(大陸勢力)への転向宣言」に等しく受け止められたということです。このパーセプション(認識)の劇的変化を放置することで誰が得をするのか、それが東アジアの安全保障にとり、どれほど危険かを想起する必要があります。
もつれた糸を解きほぐして日米韓3か国の関係を正常化する道は険しいのですが、私は次のような具体的なステップを提案したいと思います。第一に、GSOMIAについては、日韓関係を超えた東アジアの安全保障の根幹に関わる問題であるとの認識に立って、韓国が米国の勧告を受け入れる形で破棄を撤回する。第二に、日本政府は、(韓国側の輸出管理に係る是正措置を見届けた上で)輸出管理強化措置を停止する。第三に、韓国政府は、「徴用工」をめぐる大法院判決を重く受け止めつつも、日韓協定をめぐる共通理解に基づきすべての原告に対する補償措置を韓国政府の責任で行うことを表明する(その際に、自発的に日本企業が見舞金を支払うことを日本政府は黙認してもよい)。
以上のアクションを行うには、とりわけ日韓両国の間に「阿吽(あうん)の呼吸」が整わねばなりません。GSOMIAが失効する11月23日までに水面下の実務協議を通じて詳細なロードマップを策定し、年末までに日米韓の外交・安全保障関係閣僚による会議を開催し、上記3つの相互措置に合意するのです。さもなければ、ますます中露朝による分断工作の思う壺に陥ることを、そろそろ私たちは深く認識すべきではないでしょうか。
(衆議院議員 長島昭久)
戦後最悪の日韓関係をいかにすべきか(中)【長島昭久のリアリズム】
日韓関係は、前回の寄稿からさらに悪化しています。なんと韓国政府は、勢い余って遂に日韓GSOMIA(軍事情報包括保護協定)までも破棄してしまいました(11月23日に失効)。事態は、日韓関係を超え、米韓関係をも破壊しかねない想定外のレベルに達してしまいました。
日韓関係の将来を考える前に、日韓GSOMIA破棄の地政学的なインプリケーション(影響)を考えておかねばなりません。GSOMIAは、その名のとおり秘密保護に関する取り決めです。その取り決めがあって初めて機微な軍事情報が日韓間でやり取りできるようになるのです。朝鮮半島情勢をにらみ日米韓の緊密な連携が不可欠と考える米国が日韓両国へGSOMIA締結を強く働きかけた所以です。よく破棄は締結されたほんの3年前に戻るだけだから大したことではない、などと訳知り顔で述べる方がいますが、とんでもない話です。GSOMIAは日米韓安全保障協力の「紐帯(ちゅうたい)」ともいうべき重要な協定なのです。それは、朝鮮半島有事を想定すれば明らかでしょう。ハドソン研究所の村野将研究員が指摘するように、韓国軍と連合して即応態勢を維持する在韓米軍は、「後詰」の在日米軍がなければ十分に機能を発揮できません。在日米軍は自衛隊の支援が必要不可欠です。したがって、日韓の軍事的「紐帯」を断ち切ってしまえば、在韓、在日米軍の戦力発揮が困難に直面してしまいます。だから、日韓GSOMIA破棄に米国が激しく反発しているのです。
しかも、今までは北朝鮮の核やミサイル情報が3国間のやりとりの大半を占めていましたが、今後は、中国やロシアに関する情報なども日米韓で緊密に共有することが期待されていました。今回韓国政府は、この可能性を潰してしまったのです。しかも、GSOMIA破棄を繰り返し求めてきたのは北朝鮮であり中国でした。つまり、韓国は、日米との関係よりも中朝(露)との関係を優先させてしまったのです。これは、地政学的には極めて由々しい事態です。古来、朝鮮半島は、ランド・パワー(中露など大陸国家連合)の磁力に引き寄せられる傾向を持ってきました。それが、1950‐53年の朝鮮戦争以来、38度線を挟んで南の韓国と米国が同盟関係を結び(米軍を駐留させ)、日米同盟(および在日米軍)と連動させることにより、韓国を日米を中心とするシー・パワー(海洋国家連合)に引き込んでパワー・バランスを維持してきたのです。
今回の韓国政府の判断は、この地政学的前提を大きく突き崩すものです。つまり、今後の推移次第では、我が国(および米国)の安全保障の根幹を揺るがす可能性を排除できません。日韓関係の将来を考えるということは、この最悪の事態を想定した近未来を念頭に置いて我が国の安全保障戦略を練り直すということと大きく重なります。この続きは、次回詳しく論じたいと思います。
(衆議院議員 長島昭久)
戦後最悪の日韓関係をいかにすべきか(上)【長島昭久のリアリズム】
安全保障上の理由から、韓国を優遇的地位から他のアジア諸国並みとした日本政府による貿易管理の厳格化措置をめぐり、韓国では国を挙げて反日機運が高まっています。私は、今回の出来事は、日韓関係を普通の隣国関係に転換する好機ととらえています。
これまでの日韓関係における問題解決のパターンは、歴史問題(日本による朝鮮半島の植民地化に起因)を巡って「被害者(被支配国民)vs加害者(支配国)」という構図に基づいて、「加害者」とされる日本側が(過去に対する贖罪意識から)特段の譲歩を迫られるというものでした。その典型が、2015年暮れの「慰安婦合意」です。
慰安婦をめぐっては、「河野談話」によって事実認識に混乱が生じ、韓国の民族左派民間団体などの攻勢を受け、またしても日本政府が譲歩を迫られていました。じつは、この問題は韓国との関係を重視していた民主党政権でも解決できませんでした。しかし、保守派の安倍政権となって、「戦時における女性の人権問題」と捉え直し、あらゆる請求権問題は1965年の日韓基本条約・日韓請求権・経済協力協定によって「完全かつ最終的に解決」したとの大原則は堅持しつつも、被害者の尊厳を回復する措置の一環として日韓両国で基金を創設することに合意し、日本から10億円を拠出することで最終決着させたのです。これにより、慰安婦問題は、「最終的かつ不可逆的に解決された」(2015年12月28日、日韓外相共同記者発表)“はず”でした。
しかし、前政権の反動で誕生した文在寅政権において、民族左派が牛耳る側近の影響もあり、この国際約束はあえなく反故にされてしまいました。日本政府にとって、いや日本国民にとってもこの衝撃は深刻でした。この頃から「もはや韓国は信用できない」「日本はいつまで譲歩を続けるのだ?」といった論調が、保守派ばかりでなく一般の方々からも発せられるようになりました。さらに、火に油を注ぐような事案—釜山港に入港する自衛艦の旭日旗掲揚を拒否、韓国駆逐艦による海上自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射、韓国国会議長による天皇陛下(現上皇陛下)侮辱発言など—が次から次へと発生し、日韓関係は戦後最悪に陥ったのです。
そして極めつけは、元朝鮮半島労働者をめぐる韓国大法院(最高裁)判決です。「合意は拘束される」(つまり、日韓基本条約・請求権協定など国家間の合意は、行政のみならず、司法も含む三権を拘束する)という国際法の大原則を踏みにじる韓国政府の姿勢に、「仏の顔も三度まで」、ついに日本国民の堪忍袋の緒が切れてしまったというのが現実なのです。
これら韓国側の一連の対応は、日韓関係を、これまでのような歴史問題をめぐる「加害者vs被害者」という構図とは全く異なる次元に向かわせることとなりました。次回詳しく論じますが、今、日韓関係で問われているのは、加害側が被害側にどこまで譲歩するかという問題ではなく、「約束を守るのか、破るのか」という国家関係の基本に関わる問題です。
(衆議院議員 長島昭久)
自民党への入党にあたって【長島昭久のリアリズム】
前回の本コラムで、私は「政権を担い得る政治勢力」の再結集を訴えました。この間、私なりにその道を懸命に模索しましたが、力及ばず断念。二大政党への夢破れ、進退窮まった私はついに自由民主党への入党を決断、政府与党の一員として政策実現を最優先に全力で働く道を選択しました。以下は、入党届提出直後の記者会見の抜粋です。どうか私の思いの一端をご理解ください。
まず何よりも、これまで、私自身の選挙はもとより、各種の選挙戦を通じ、あるいは国会論戦を通じ、政府与党を厳しく批判し対峙してまいりました私を、寛容にも快く受け入れくださった二階幹事長はじめ自由民主党の皆さまに心より感謝申し上げたいと存じます。
私は、国政を志して以来40年、我が国の外交・安全保障体制を確立し、国際社会をリードできる日本をめざし、ひたすら研鑽を積んでまいりました。その意味から、初当選以来、「外交・安全保障に与党も野党もない、あるのは国益のみ」を信条として国会活動に取り組んでまいりました。このことは、長く野党陣営に身を置いてきたとはいえ、「保守政治家」としての誇りでもあります。
私は、これまで一貫して二大政党制の確立を掲げて参りました。政権交代可能な政治を実現するためには、政権を担い得る健全野党の存在が不可欠であります。ところが、その根本を見失い、自衛隊も日米安保も天皇制をも否定する共産党との選挙協力を公然と進め、衆参両院における憲法審査会の開催を阻み続け、国民の権利ともいうべき憲法論議の機会すら奪って顧みることのない今日の野党勢力の在り様は二大政党には程遠く、もはや私の政治信条とは相容れないものとなってしまいました。さりとて、無所属議員では、国政への参画はおろか、政策実現もままならず、国民の付託に応えることもできません。
その意味では、この度の私の決断は、遅きに失したと言わざるを得ません。政治は結果責任。政策実現こそ政治家の使命です。激変する国際情勢や少子高齢化の進展など、我が国が直面する内憂外患の深刻さを考えた時、政策実現に要する時間的猶予は日に日に切迫しており、これ以上現状に甘んじることはできないと強く認識するに至りました。
この上は、政治家としてまさに一から出直す覚悟で、自由民主党の一員として、国家国民のため、そして将来世代のため、全身全霊全力で働いてまいります。今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。
最後に、このたびの私の決断によって、今日まで「非自民」ということでご支援いただいた地元有権者の皆さまはじめ、地方議員や労働組合、諸団体の皆さまには、そのご期待を裏切る形となったことを深くお詫び申し上げます。また、これまで苦しい時も励ましてくださった旧民主党の同僚議員の皆さまにも心より感謝申し上げます。
(衆議院議員 長島昭久)
政権を担い得る野党なくして、二大政党政治なし【長島昭久のリアリズム】
衆参ダブル選挙の声が喧しくなってきましたが、衆院解散は総理の専権事項ですから、私たち議員は「まな板の上の鯉」に他ならず、じたばたしても仕方ありません。「常在戦場」を胸に刻み、何があっても対応できるように準備だけは怠りなく進めるのみです。(苦笑)
そのような中、小沢一郎さんなどは、「今のままでは野党は壊滅する」しかし、「野党が一つになれば政権交代は可能」と盛んに発破をかけています。さすが、小選挙区制度導入の立役者にして、平成時代を通じてあらゆる政局をつくり上げてきた方だけに、その言には迫力があります。
私自身も、かつて小沢さんの『日本改造計画』に魅了され、政権交代可能な二大政党制を日本に定着させるとの強い思いを抱き、平成12年(2000年)10月の衆院補欠選挙に当時の野党第一党だった民主党から立候補しました。一敗地にまみれ、3年間の浪人を経て15年11月の総選挙で初当選し、以来お陰さまで6期連続当選し今日に至っております。その間の平成21年、悲願の政権交代を果たし、3年3か月という短い期間でありましたが政権を担わせていただきました。しかし、24年12月の総選挙に敗れ下野して以来、旧民主党は四分五裂、一昨年の「希望の党の反乱」もあえなく鎮圧されて今日の体たらくです。
そのような中で飛び出したのが、先ほどの小沢発言です。しかし、二大政党(あるいは政治勢力)による政権交代可能な政治を標榜することについては人後に落ちぬと自負する私でも、小沢氏の発言には違和感しかありません。なぜなら、「二大政党制」というのは、とにかく大きな政治勢力が二つあればいいという話ではなく、いつでも政権党に取って代わって政権を担い得る野党の存在が大前提だと考えるからです。
「野党が一つにまとまれば政権党を倒せる」というのは、たしかに小選挙区制度の本質を突いた話ではありますが、「二大政党が切磋琢磨してより良い政治を行う」という二大政党制とは無関係であり、それは「より良い政治」ではなく政権打倒のみを目的にした「野合のすゝめ」に他ならず、無責任極まりないと考えるからです。
現に、いまの野党は、現時点で多少勢いのある左派勢力を中心として、とにかく「アンチ安倍」で一つにまとまろうとする余り、憲法や安全保障やエネルギー政策など国家の基本問題に対する極論のオンパレードで、政権を担うことは到底考えられません。
私は、そういった野合とは一線を画し、今後とも「政権を担い得るど真ん中の政治勢力」再結集をめざし、愚直に政策競争と熟議の国会を追求してまいります。
(衆議院議員 長島昭久)
令和元年の憲法記念日に誓う「現実的な平和への道筋」【長島昭久のリアリズム】
数か月前まで「激動の朝鮮半島をめぐる『不都合な真実』」と題して連載をしておりましたが、3月のハノイにおける米朝首脳会談の決裂によって事態は暗礁に乗り上げたまま動く気配がないたため、「閑話休題」として5回にわたって日韓問題や日露交渉について論じてきました。しかし、いつまでも閑話休題を続けるわけにもいかず、今回から正常軌道に戻してふたたび様々な国家的課題についてリアリズムの視点から論じてまいりますので、よろしくお願いします。
さて、5月1日午前零時(4月末日24時)、202年ぶりの天皇ご譲位が無事行われました。2000年を超える万世一系の皇統の歴史に思いを馳せ、上皇陛下の最後のお言葉、天皇陛下の最初のお言葉を拝聴し、有難く胸が熱くなりました。令和の時代も平和を守り、世界の課題解決の先頭に立つ日本を築いてまいりたい、と決意を新たにしました。
そして、令和元年が明けて3日目の憲法記念日、民間憲法臨調主催の「公開憲法フォーラム」に衆院会派「未来日本」代表として出席し、昨年に続き挨拶の機会をいただき、大要以下のようなことを述べました。
まず、新天皇践祚(せんそ)の儀式が滞りなく行われたことを寿ぎ、その上で、私たちに課された重大な使命が、憲法の改正とともに、安定的な皇位継承を図るため速やかに皇室典範改正の議論を行うことであると述べました。その際、皇統の根幹たる男系継承の大原則と共に、占領下GHQによって強制的に皇籍離脱させられた11宮家51方の存在を忘れるわけにはいかないと指摘させていただきました。
つぎに、平成最後の外国訪問を台湾とし蔡英文総統はじめ政府要人と会談を重ねたことを報告し、中国からとてつもない圧力にさらされた台湾の現状は、まさしく「明日の我が身」に他ならないと警鐘を鳴らしました。いま、中国は、圧倒的な軍事力の威嚇とともに、台湾社会の各層に凄まじい浸透工作(influence operations)を展開し、蔡政権の政治基盤は大きく揺さぶられています。
そのような中、蔡総統からはアメリカとともに日本外交に対する期待の言葉をいただきましたが、「力の裏付けなき外交」は単なる社交辞令に過ぎません。いま我が国に必要なのは、台湾海峡の平和はもちろん、インド太平洋地域の平和と安定と繁栄をアメリカと共に下支えできるだけのリーダーシップであり、それを裏付ける「安全保障の力」(国際秩序を形成する力)に他なりません。その力を発揮するためにも、憲法9条の改正が急務であると述べました。憲法条文と我が国を取り巻く国際情勢の現実とのギャップを放置することは、憲法規範の空洞化を放置することと同義であり、まさしく立憲主義に反するのではないかと指摘しました。
もちろん、この考え方に異論のある方もおられると思いますが、先ずは国会の衆参両院に設けられた憲法審査会の議論を一刻も早く再開すること。これぞ令和の時代における国際平和を「現実的なアプローチ」で築いていくために国会議員に課せられた重大な使命であると心得ます。
(衆議院議員 長島昭久)
閑話休題 その3:北方領土をめぐる日露交渉に、喝!(下)【長島昭久のリアリズム】
私の見るところ、安倍政権にとりロシアとの平和条約締結を急ぐ最大の理由は、対中戦略上の要請だと考えます。今の日本にとって、「中国の台頭」こそが最大の戦略的課題であり、同盟国である米国との関係を重視する(が故に集団的自衛権の行使に踏み切った)のも、インドや豪州、台湾、モンゴルなどとの連携を強化するのも、朝鮮半島情勢をめぐる日米韓の協力を緊密化させようとするのも、東南アジアや南太平洋諸国との協調体制を構築するのも、すべては中国との地政戦略的なバランスを安定化させるための努力の一環です。そこに、ロシアを引き込もうというのが安倍総理の外交戦略です。
しかし、ロシアにはロシアの戦略があり、国益があります。たしかに、人口1億を超える中国東北部と国境を接するロシアの人口はわずか6%に過ぎず、経済的にも軍事的にも中国からの大きな圧力を感じていることは間違いありません。だからといって、プーチンのロシアは、日本が描く戦略図の中にはめ込まれるような軟(やわ)な国ではないでしょう。しかも、日本はロシアの仮想敵国ともいうべき米国の最大の同盟国です。しかも、北方領土(周辺海域を含む)は、冷戦期から軍事的な価値は変わらないのみならず、サハリンのガス油田開発や北極海航路などにみられる経済的な価値も増大していますので、なおさら妥協の余地は小さくなっています。
このように地政戦略的にも困難な領土交渉に“止め”を刺したのは、他ならぬ安倍総理自身でした。イージス・アショア(AA:陸上配備型イージス弾道ミサイル防衛システム)配備の決断です。これは、ロシアにとり看過できない「新たな事態」です。そのことは、米国がルーマニアとポーランドにAAシステムの配備を決定した時のロシアの猛反発を想起すれば理解できるでしょう。にもかかわらず、安倍総理は、平和条約交渉が佳境に差し掛かった昨年7月にAAをロシアの目と鼻の先にある秋田に配備することを決めたのです。あれは北朝鮮の弾道ミサイル脅威への対応の一環だ、との日本側の説明はプーチン氏の耳に空しく響いたことでしょう。
しかし、北朝鮮(さらには中国)の弾道・巡航ミサイル脅威に対処することは我が国の安全保障にとり死活的であり、ディールの対象になろうはずがありません。ましてや、巷間噂されているような「北方領土返還の暁には米軍の軍事施設を置かない」といった確約など論外です。ロシアの戦略目的の一つが日米同盟の弱体化であることをゆめゆめ忘れてはなりません。
いずれにせよ、あれほど安倍総理が力を注いできた日露交渉ですが、ここへ来て改めてその困難さが浮き彫りになりました。ただし、筆者は、それでよかったと思っています。元島民の皆さまや漁業関係者には相すまぬことですが、やはり領土主権は国家統治の根本であって、拙速に妥協することは将来に禍根を残します。日本としては、改めて国力を立て直し、ロシアに足元を見られないような強固な交渉基盤をもって領土返還交渉に他日を期すべきです。
(衆議院議員 長島昭久)
閑話休題 その3:北方領土をめぐる日露交渉に、喝!(中)【長島昭久のリアリズム】
前回おさらいした過去の経緯を踏まえ、安倍首相は今、どのようなアプローチで北方領土問題を解決しようとしているのか、分析を試みましょう。結論から言えば、安倍首相は、「4島一括返還」を求めてきたこれまでの日本政府の姿勢を転換し、歯舞・色丹の2島(先行)「引き渡し」に焦点を絞り、平和条約の締結(を通じて両国関係の完全正常化)を急ぐとの戦略的決断を行った模様です。昨年11月のシンガポールでの日露首脳会談において「1956年の日ソ共同宣言を基礎にして平和条約締結交渉を加速化する」ことで合意したというのは、まさしくそのことを意味するのでしょう。
この点をめぐり、国内から批判の声が上がっていることは周知のとおりです。すなわち、歴史的にも国際法の上からも我が国固有の領土である国後・択捉の2島を事実上放棄することは、竹島や尖閣など他の領土問題に対する悪影響はもとより、主権国家としての外交姿勢の根本が問われることになります。しかも、歯舞・色丹の領土面積は北方領土全体のわずか7%に過ぎないのではないかとの批判です。ここへ来ていきなり「日ソ共同宣言」の線で平和条約交渉をまとめたいと言われても、それは過去60数年間の日ソ・日露交渉の経過をあまりにも軽視した姿勢と言わざるを得ないのではないかと。我が国の国力は、敗戦から10年しか経っていない1956年当時とは比べものにならないくらい拡大しており、冷戦後の93年の東京宣言では「平和条約交渉の継続は4島の帰属問題の解決を意味する」という合意にまで、日本がロシアを押し返した外交成果を無にするのか、というわけです。
したがって、安倍政権としては、たとえ93年の線から後退してでも今なぜ平和条約締結を急がねばならないのか、その理由を説得力ある形で国民に示す必要があります。そこには、日露の二国間関係を超えた地政戦略的な正当性がなければなりません。もちろん、(不法か否かに拘わらず)すでに島を占有しているロシアにその返還を求める日本としては、相応の妥協を強いられることは覚悟せねばなりません。たとえば、領土返還の代価として、ロシア側が求める経済協力プロジェクトや北方領土の共同管理などで日本側の歩み寄りは最低限必要といえましょう。
最終回は、そのような一見不釣り合いともいうべき代価を支払ってでも、ロシアとの平和条約締結を急ぐべきだとの安倍政権による「戦略的判断」の是非について考察したいと思います。
(衆議院議員 長島昭久)
閑話休題 その3:北方領土をめぐる日露交渉に、喝!(上)【長島昭久のリアリズム】
北方領土返還を求める日露交渉が難航しています。二度目の首相に就任以来、安倍首相が北方領土問題の解決に並々ならぬ姿勢で臨んできたことは誰の目にも明らかです。在任6年の間にプーチン大統領との首脳会談はじつに25回に及びます。しかし、核心部分はしばしば「差し」の会談(通訳のみ同席)で話されてきましたので、肝心の情報は厳格に秘匿され外部の者からは窺い知ることはできません。以下、全貌を把握することが難しい日露交渉の現状を改めて分析し、私なりの考え方を述べたいと思います。本論に入る前に、まず議論の前提として、いくつかの歴史的事実を整理しておきたいと思います。
1.日本の主張(固有の領土である北方4島の主権は日本にある)とロシアの立場(第二次大戦の結果、4島はロシア領となり主権はロシアにある)は、真っ向から対立している。
2.近代国際法の下、日本とロシアとの間で初めて国境線を確定した「日魯通好条約」以来、第二次大戦末期まで国後、択捉を含む北方4島にロシアの支配が及んだことはない。
3.対日参戦の条件としてソ連が千島列島の領有を要求し、米英がそれを容認したとされるヤルタ協定(連合国有志間の密約)に基づき、大戦末期にソ連が日ソ中立条約を破棄し満州などに侵攻。ソ連軍は、日本が無条件降伏(1945年8月15日、ポツダム宣言受諾)した後になって北方4島に侵攻。以来、ソ連による不法占拠が続く。
4.終戦直後の混乱期、当時の吉田首相(1951年、サンフランシスコ講和会議での発言)や西村外務省条約局長(国会答弁)らは、国後・択捉島を「南千島」と呼び、色丹島と歯舞群島を「北海道の一部」と明言するなど異なる扱いを示した。
5.早期解決を模索した鳩山首相は、日ソ共同宣言(1956年)により、歯舞・色丹の2島「引き渡し」で妥協しようとしたが、冷戦が深まる中で日ソ関係の改善を警戒する米国からの牽制(ダレスの恫喝)などにより、4島返還の原則に妥協を加えることができなかった。
5.1960年の日米安保条約改定により、日本によるソ連への敵対姿勢が明らかになったとして、ソ連は日ソ共同宣言の線を後退させ日ソ間の「領土問題は解決済み」と主張し始めた。
6.ソ連崩壊、冷戦終結後、日露間でいくつもの首脳会談および共同声明が発出され、ロシアは領土問題解決済みの旗を降ろし、4島の帰属の問題を話し合う姿勢に転換。とくに2001年の「イルクーツク宣言」では、日ソ共同宣言を平和条約交渉に関する出発点を設定した基本的な法的文書と位置づけ、「東京宣言」(1993年)に基づき、4島の帰属問題を解決することにより、平和条約を締結するための交渉を促進することが合意され、今日に至る。
(衆議院議員 長島昭久)