【インタビュー】デザイナー、ヨネダケイスケの波乱な人生「人生のキーワードはハッタリ」
最近人が多くなった裏原宿に店舗を構えるユーズドセレクトショップ「Connector(コネクター)」。相模大野で1畳のショップから始まった古着屋は、デザイナー/バイヤーのヨネダケイスケ氏が経営している。現在では「go!go!vanillas」や「sumika」など、若者に人気のあるバンドにも愛されるヨネダ氏の服。「体当たりなやり方で神奈川から洋服の聖地・原宿までやってきた」とヨネダ氏は語る。デザインもバイイングも特に学校には通っておらず、独自のやり方で店舗を成長させてきたというデザイナー人生の裏側に迫ってみた。
ヨネダケイスケは神奈川大和市出身。普通科の高校を卒業後、レストランや居酒屋でフリーターをしていたという。
「昔から音楽が好きで、ハイスタやニルヴァーナなどを聴いていました。そこから、バンドマンたちが身にまとう服に興味を持ち、アパレルの仕事を選択しました。最初はアルバイトで、下北沢の古着屋などで働きました。そこで雑貨のバイイングノウハウを実務で学び、自分で店を持つことを考えるようになりました」
こうしてヨネダ氏は、24歳で独学で得た知識で自店を構えることを決意したという。
「最初に始めたのは相模大野の一坪ショップ。いろんなクリエイターが場所借りで自分の棚を置くショップで、自分のスペースを持ちました。雑貨とセレクトの服を売り、自分の生計を立てていました。バイイングの知識はありましたが、ツテは全くなかったので、バイイングの仕方は本当に自分流。いいなと思う服をショップで見つけたら、商品タグの卸業者をチェックし、まるでいつも買っているかのような口ぶりでその業者に電話をするんです(笑)。僕のやり方はいつだって”DIY”です」
「Connector」は、ここから町田、柏、そして原宿にまで進出する。
「相模大野から撤退したのは、1坪ショップの倒産が原因でした。売上の入金が3カ月も遅れ、ある日突然の倒産。ビルのオーナーから1週間以内に退店するように告げられ、売上500万円を損失して途方にくれました。
なんとか戻ってきた70万を握りしめ、新店を持つことを決めました。そこで立ち上げたのが町田の店舗です。もちろん資金は70万円ぽっきりでしたが、借りたのは家賃32万円の店舗。その時も不動産屋で、まるでカネの工面はついている、というような口ぶりで”保証金は分割で。来月から払います”と言いました(笑)。1カ月でなんとか家賃分と保証金の売上を確保し、翌月からの支払いで店舗を持続することができました」
スレスレのやり方だが、当時は迷いなく行ったというヨネダ氏は、子どものような無邪気な口ぶりで当時の苦労を笑いながら語った。
「相模大野の頃のお客さんも町田まで来てくれて、店は順調でした。その頃から自分名義のデザインブランドも作り始めました。これもやり方は自分流ですが、古着商品のリメイクから始めました。リピーターやファンも増え、そのうち正社員になりたい、と言ってくれる人も現れて。そんな人たちを雇ってあげたくて、原宿と町田で2店舗を構えることに。原宿店の時は、都心なのでもちろん初期費用も家賃も高くて、カネは足りてなかったけど…いつものハッタリで来月支払いを取り付けて(笑)。2店の売上でなんとか翌月からの支払いをこなしました。僕のアパレル人生の中では、ハッタリは重要な社会スキルでしたね」
しかし毎回翌月には資金を工面し、借金は作ったことがないというヨネダ氏。そこはさすがとしか言いようがない。
「店舗を増やして、人を雇いました。……でも、自分のためだけを考えていたら原宿店は出さなかったと思う。町田1店の時が一番、自分の手元にカネが残ってましたから。原宿店を出したのは、ただただ正社員になりたいと言ってくれた子のためでした。そんな経緯で、一番多い時は3人の正社員を雇い、柏、町田、原宿で3店舗経営していましたが……今は人が辞めてしまって、また僕が一人になってしまっているので、原宿店だけの経営になってしまっているんですけどね」
会社の倒産に、正社員のための店舗拡大。資金もなく一歩を踏み出してしまうヨネダ氏の人生は大波乱だ。
しかし、「人のために」と拡大してきた「Connector」はどんどんファンを増やしてここまで来た。今では原宿でも有名な古着セレクトショップの一つだ。
「今年は自分の露出を増やしていきたい。今まで人のためにばかりやってきたから、そろそろ自分のために働いてみようと思っています」
ヨネダ氏は現在、「Connector」の経営に加え、バンドのグッズ制作、撮影カメラマンなどもこなしている。
(文・ミクニシオリ)